着想メトロ

アイデアとは、世界の捉え方を再構成することで新たな価値を獲得し、さらにそれを経験によって持続させる、一連のプロセスのこと。

アフィン空間とアフィン写像

モチベーション

 ベクトル空間\( \; E \; \)には基準となる原点\( \; O \; \)が存在し、すべてのベクトルはこの原点を始点とする。つまり各ベクトルとそのベクトルの終点は一対一に対応していて、この対応関係は原点の存在によって保障される。

 この原点を固定せず、流動的にしたものがアフィン空間である。原点を変えることはすなわち「基準」の変換であるから、「視点の切り換え」という可塑性を備えた空間だとも言える。個々の具体的な問題に応じて適当な原点を選択するという自然な行為のなかに、このアフィン空間の概念は立ち現れる。例を挙げよう。

 三次元ベクトル空間\( \; \mathbb{R}^{3} \; \)を考える。この三次元空間の中に、部分ベクトル平面\( \; F \; \)をとろう。もちろんこの平面はベクトル平面なのだから原点が属さなければならない(加法に関する単位元の存在)。この平面を構成する個々の点を、\( \; \mathbb{R}^{3} \; \)に属するベクトル\( \; \vec{v} \; \)によって平行移動することを考える。するとこの平面は別の平面\( \; \Pi_{\vec{v}} \; \)に変換されるだろう。この平面\( \; \Pi_{\vec{v}} \; \)は、\( \; \vec{v} \in F \; \)でない限り原点が属さない平面であるから、この意味でベクトル空間には成りえない。ところがもともとベクトル平面であったものを平行移動させたものなのだから、元のベクトル平面と何か密接な関係がありそうである。

 平面\( \; \Pi_{\vec{v}} \; \)には基準となる原点が存在しないので、平面を構成する個々の点は絶対的な位置関係を持たない。すなわちこの平面内の一点を選んだとき、それをその平面内に属するベクトルで表すことができない。ところが異なる二点を選んだときには、その相対的な位置関係を\( \; F \; \)に属するベクトルで表すことができる。この点を詳しく見てみよう。

 いま\( \; \Pi_{\vec{v}} \; \)に属する一点\( \; a \; \)を選ぶと、三次元空間内でこの平面を見下ろす者にとってはもちろん\[ a=x+\vec{v} \]とベクトル(の和)で表せる。ここで\( \; x \; \)はそれを\( \; \vec{v} \; \)で平行移動したとき点\( \; a \; \)に移るような\( \; F \; \)に属するベクトルである。ところがこの点を平面内のベクトルで表現しようとするとこれは不可能である。この平面には基準となる原点がなく、ベクトルの始点を選ぶことができないからだ。

 この平面内の別の点\( \; b \; \)を選んで、この点が\[ b=y+\vec{v} \]と表せるとすれば、この二点の差は\[ a-b=x-y \in F \]となって\( \; F \; \)のベクトルで表せる。つまり平面\( \; F \; \)上で生きる者にとっては、\( \; a, \; b \; \)という点それぞれはベクトルで表せないものの、その差は平面内のベクトルとして認識できるということになる。だから個々の点の相対的な位置関係は把握できるものの、それは絶対的ではない。原点が固定されていないというときはこういう状況をいうのである。実はこの平行移動された平面をアフィン空間(正確には部分アフィン空間)というのである。すなわち(いまの状態では)アフィン空間はベクトル空間ではない。だがもともとベクトル平面であったのだから、ベクトル平面と成りえる潜在的可能性は持っている。これが実際可能であることを示そう。

 いまからやろうとするのは、閉じた体系であるひとつのベクトル平面を平行移動したものが、どうやって再び閉じた体系に成り得るのか、そしてこの二つの閉じた体系を結ぶ関係は何なのか、という点を明らかにすることである。

 三次元ベクトル空間の住人が、\( \; \Pi_{\vec{v}} \; \)上に住む者の営みを観察していると、「どうやら平面上のベクトル計算はその平面内で閉じているらしい」ということがわかったとしよう。これはおかしい。というのも三次元の住人からしたら、平面上の二点\( \; a, \; b \; \)を足した結果は、特殊な場合(つまり\( \; \vec{v}\in F \; \))を除いて平面の外へ飛び出してしまい、平面上の観測者からは認識不可能なはずだからだ。そこで三次元の者はこの平面上の者に「\( \; a \; \)をベクトルで表せるか」と問う。すると「表せる」と答えた。「では基準としている点があるのか」と訊ねると「ここだ」といって点\( \; c \; \)を指したとしよう。そこで三次元の住人は、平面上の住人が原点\( \; O \; \)とは異なる点を基準にした、異なる閉じた体系を成していることに気づく。

 いま\[ a=x+\vec{v}, \;\;\; b=y+\vec{v},\;\;\;  c=z+\vec{v} \]と表せているとすれば、平面上の住人は空間内の住人と異なる演算を用いていることになる(異なるといったのは空間からみて、ということであって平面上の人からすればそれは空間内の人と同じ演算をしていることになる)。すなわち\[ \vec{v}=c-z \]から\[ \begin{cases} a+b = (x+c-z)+(y+c-z) \equiv (x+y-2z)+c, \\ ka=k(x+c-z)\equiv k(x-z)+c\end{cases} \]というベクトル空間の構造を持っているということになる。これは点\( \; c \; \)を原点とみなしているということに外ならない。ただし注意しなければならないのは、この構造が点\( \; c \; \)に依存しているという事実だ。ここに原点の恣意性があるのであって、ベクトル空間から絶対的な基準をとり除いた「中性な」状態を実現しているのがアフィン空間なのだ。ただし一度特別な点(上述の例では点\( \; c \; \))を固定すると、空間内にいる者にとって平面\( \; \Pi_{\vec{v}} \; \)は疑似的にベクトル平面を成しているといえるわけだ。

 このように「基準というものの相対性」を考慮したいという動機があって、アフィン空間という概念が生み出された。視点の切り換えが自由にできることは、問題を解く側に都合がいい舞台へと持ちこむのに非常に便利である。

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最小作用の原理(5)――多次元への一般化

 

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  • 前回までの議論で、一粒子かつ保存系(エネルギーが時間に関して不変である系)である場合には、作用(運動エネルギーマイナスポテンシャル・エネルギー)という量の変分を考えることで正しい方程式を導くことが出来た。
  • この記事では三次元の場合に一般化し、さらに粒子がいくつもある場合でも容易に拡張できることを示す。
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Dream

夢は生き抜くことができる

 まずは以下の動画を見ていただきたい。その際この動画を、音として、音のリズムとして味わってほしい。これはある有名な人物のスピーチを動画としてまとめたものである。

 以下に日本語訳を載せておくが、文字に固定されてしまうとその魅力は激減する。ほとんど月並みなことを言っているとさえ感じられてしまうのだ。でもこの人のスピーチを実際に見てぼくは感動したし、心を揺さぶられた。それを与えるのはその人の放つ「肉声」なのだ。だから訳の方は「大体こんなことを言っている」程度におさえておいて欲しい。

Dream - Motivational Video - YouTube

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ゴールデンナンバー

数列とは

 いまここにある一変数写像があるとしよう:\[ y=f(x). \]これはこちらがある入力\( \; x \; \)を選んだとき、出力\( \; y \; \)を定めるアルゴリズム\( \; f \; \)を表している。

 では次に似ているが次のような写像を考えてみよう:\[ x_{n+1}=f(x_{n}). \]入力と出力の下に添え字\( \; n \; \)が付けられている。

 おおざっぱに言ってしまうとこれは「時間」を意味する。「ステップ」と言ってもいい。つまり「ある時間の入力」に対して、「その次の時間での出力」を決めるアルゴリズムを表している。最初の例との違いは順序づけられているかいないかである。

 前者はこちらの入力に対して出力がポンと出てきて終わりだが、後者は出力が出てくるとそれが次の入力になって、その次の出力が出てきて……というふうにドミノ倒しのように出力の系列が得られる。例を挙げよう。

 「数える」というアルゴリズムを表してみると以下のようになる:\[ x_{n+1}=x_{n}+1, \;\;\; n=1, \; 2, \; 3, \ldots \]これはある時点での入力と、それに対応する出力を抽象的に結びつける関係だから、たったひとつの式で無限個の関係式が得られる。それを見てみよう。まだ数えていない状態は\( \; 0 \; \)個だから、これを最初の状態として採用する:\[ x_{1}=0. \]この数を入力してみると、出力としてその次の値が得られる。つまり上記のアルゴリズムに\( \; n=1 \; \)を入れてみると、\[ x_{2}=x_{1}+1=1. \]こうして新たな出力が得られたので、今度はこれを入力する:\[ x_{3}=x_{2}+1=2. \]このようにして無限個の数の系列\( \; \{ 0, \;1, \;2, \;3, \;4, \ldots \} \; \)が得られるわけだ。

 だから初期値を決めると(最初のドミノを倒すと)、アルゴリズムに従った出力の無限系列が自動的に生成される。このように、\( \; n \; \)番目の入力と\( \; n+1 \; \)番目の出力を結びつける関係を「漸化式」という。上の「数える」場合は「二項間漸化式」となる。漸化式によって得られる出力の系列を「数列」と呼ぶ。

漸化式から「ある時間での出力値」をその時間を用いて表したい

 「漸化式があるならそんなもん求めなくたっていいだろ」と思われるかもしれないが、実はそうでもないのだ。例えば100番目の出力値を求めたいのなら初期値から愚直に計算してもなんとかなる。では10億番目の出力値を求めたいときはどうだろう。一般に時間が先にいくにつれ、出力値の計算にかかる手間は増していくのだ。

 「だったら任意の時点での出力値を時点の関数として表しちまえばいい」これが動機である。これを「一般項」という。つまりいまある漸化式\[ x_{n+1}=f(x_{n}) \]があるとして、もし\[x_{n}=g(n)\]というふうに、一般項のかたちで時間の関数として第\( \; n \; \)番目の出力値を求められたなら、どの時点の値も即座に知ることができる。

 一般に数列が目の前にあるときは、漸化式のほうを見抜くほうが易しい。逆に数列からその一般項を求めるのは往々にして困難である。そこで次なる課題は、「漸化式がわかっているとして、そこから一般項をどう求めるか」となる。

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本を読むのに「しおり」は要らない

読み方が一直線になる

 栞を挟んで読むことによる弊害は、「栞より前の部分をわかった気にさせてしまうこと」だ。また「栞を挟む」という行為によって機械的に読書の進捗度を記録することで、「本を読み終わること自体」が目的になってしまう可能性がある。それは読書でもなんでもない。文字を目で追うだけになってしまう。

後戻りをしたか

 本というのは一回さらっただけではもちろんわからない。というか、それでわかってしまうような本は読む必要がない。

 一度でわからないのだから、必然的に「後戻り」することが必要になってくる。後戻りするときはいつも「ん」とか「は?」、「それってなんのことだっけ」など、疑問符が浮かんだときなのだ。これを見逃してはいけない。

 栞をあえて挟まずにおき読み進んだ部分を曖昧にしておくことで、後戻りする機会を増やす。筆者が前提としている部分などは意外と見過ごしてしまうのもので、これは筆者の意見を曲解してしまう主な原因となる。それを未然に防ぐためにも、前で何が述べられていたか、というのをいちいち確認していく過程が重要になる。こうした「重ね読み」をすることは、本が持つポテンシャルを十分汲み出すための前提となる。

先読みもしてしまう

 本は始めから最後まで読まなければならないということはない。だから目次といううものがあるのだ。自分の興味ある話題が言及されているところから読み始めることもできる。もちろん筆者は往々にして論理を順序よく展開するから、始めから読むほうがそうした筆者の意図を掴むのにはよい。

 だがここでは「体験のための読書」をしたいのだ。自分の意見・感情・経験と結びつけて、本と個人的な関係を結ぶ読書だ。この読書のためには筆者の思惑通りに本を読む必要などなく、自分の思うとおりの順番で興味に任せて読んだほうが体験としてインプットされやすくなるし、「途中から読んでしまっている」という認識が疑問点を見過ごしてしまう危険を減じる。「途中から読んでいるのだから疑問があって当たり前」という考えが生まれるからだ。

 ものすごく適当な読み方だな、と思われるかもしれない。ぼくはそれでいいと思っている。最初はものすごく適当に本と向き合う。そういう適当な気持ちでも、心に残る、つまり読み手の個人的体験になり得るような部分は、否が応でも向こうから現れる。そういう予兆が見え始めたら、今度は真剣に読んでみる。それでいいではないか。

三色信号で体験を視覚化する

 そうして本と友達になれそうな気配が漂い始めたところで、初めて付箋の出番である。これには青、黄、赤の三色をつかう(もちろんこの三色でなくてもいい)。青は賛同する部分(ポジティブなイメージを持てたところ)、赤は反対する部分(ネガティブなイメージを抱いたところ)、黄色はわけがわからなかった部分に貼りつける。

 青はあとで持論を後押しするために引用できるし、赤はもしかしたら自分の価値観を立て直す契機となるかもしれない。もちろん持論の正当性を際立たせるために使ってもよい(ただ個人的にはこうした使用法は好きではない)。黄色は、何らかの原因でその部分を理解するための状態が自分の中で整っていない部分である。読書をするのはこうした「違和感」に出会うためだといってもよい。この理解不能な部分は、本の中で解決することもあれば、もっと開かれた意味でわからない部分であって、読み手の成長が必要なだけにその場では解決しないこともある。後者の場合がもちろん大切で、本を通した体験を生みだす源泉となる。

 この三色信号を最初の段階でやってしまうと、まだ過渡的状態にある自分の読書を無理に方向づけてしまうばかりでなく、読み進めるに従って色が移り変わるということが頻繁に起こるので(黄→青など)、これに伴って付箋を貼り変えるのは非常にめんどくさい。だからある程度本との関係が確立された段階で実行するのだ。

 もちろん自分自身の成長によって色が移り変わる場合もある。それはまた別の話で、読書を通して自分の経験を物語にできるのだからしめたものである。

 「この本(または著者)を理解したい」、そう思わせるほどの何かをその本が持っているのなら、友達と向き合うつもりで本を読むのだ。

 友達の理解できない部分に直面したとき、それを放っておくか、とことん突き詰めるか。放っておいたら穏便な関係で済ませられるかもしれないが、そこには何も生まれない。一方、自分が納得するまでその不理解を掘り下げることは、もしかしたらその人との関係を修復不可能なまでにボロボロにしてしまうかもしれない。だが反対に、唯一無二の親友となれる可能性もある。赤の他人でいることに満足するか、それとも真正面からぶつかり合うかだ。まるで青春時代での人間への接し方だ。

 本との関係は人間関係とは違って社会的条件に左右されない。つまりいつでも読み手は青春時代でいいのだ。だからここでは迷わず体当たりを選ぶ。

まとめ

  • 栞とはおさらばする
  • 本をいろんな読み方(線形ではない読み方)で紐解き、個人的な関係を結べるか試す
  • 友達になれそうだったら詳しく始めから読んでみる(疑問があったら迷わず後戻りすることを忘れない)
  • 三色信号で読書体験に色をつけ、ストックしておく
  • そうやって著作と体験を共有したら、今度はそれを著した著者にも興味を持ってみる