着想メトロ

アイデアとは、世界の捉え方を再構成することで新たな価値を獲得し、さらにそれを経験によって持続させる、一連のプロセスのこと。

最小作用の原理(1)――多くの天才を魅了する自然の巧妙さ

 

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  高校生のころの自分にとって、物理はとても難しい科目だったのを覚えている。それは、現実で生起する現象を、物理で扱える対象へとモデル化する作業だったからに他ならない。

 現実の現象を、数理的(つまり数式で扱える)現象へと解釈し直す手続きは、その現象の数学的本質を抜き出すことである。ここで数学の能力が必要になり、さらにその後、一連の物理法則を適用して「意味ある」結果をはじき出さなければならない。しかし物理法則が適用できるためには、その法則が適用できる「枠組み」を的確に把握する必要がある。どのような現象を、どのような仮定のもとで、どのように数式化した上で、それらの法則が得られたのか。こういった点が曖昧だと、「公式」をうまく扱えないばかりか、得られた結果から洞察を得るのも難しくなる。

 いま考えると基本的な数学の力が不足していたのかもしれない。二つの命題が同値であるということの意味もよく解っていなかった気がする。

  物理は数少ない法則によって自然を理解できる魅力的な分野であるというのは、当時の恩師から繰り返し聞いたことである。しかしその実感はほとんど伴っていなかった。扱う公式の数は実際とても少ないとは言えなかったし、モデル化の過程で近似が繰り返される結果、現実との隔たりが大きくなってしまう印象もあった。

 本当の物理の姿を見たのは、物理というものが微積分という強力な方法の上に基礎を置いているということを知り、またその理論を学び始めたころからであった。このころから見た目は異なる二つの法則も、ある操作をすると他方に還元できることを知った。そこで法則の同値性とはつまるところ数学的な同値性であることを理解した。そして物理が数学を原動力として、数学的な結果から物理的な解釈を導くという流れがある一方、物理現象から数学の一分野が築かれるという流れもあることを知り、この相互交通が二つの分野の豊かな発展、さらには科学の進歩に大きな貢献を果たしていることを知った。

 このころ恩師から頂いたファインマンの名講演「物理法則はいかにして発見されたか」を手に取った。そして物理学者がより一般的な物理法則を発見するために「保存量」というものを探し求めていること、そしてそれは数学的な取り扱いに優れているからであることを知り、「ある操作に対して不変であること」の重要性を理解した。

 また量子力学では、確率的な不確定性がミクロな世界を支配していることに衝撃を受けた。ここで人間のスケールというものが相対的なものではない、なんとなれば物理というものはある基準となるスケールに大きな制約を受けていることがわかった。マクロな物理は相対的にミクロな物理へと適用され得ないのだ。観測という行為がミクロな物理現象をかき乱すこと、そしてそれが物理対象をある特定の状態へと押し込めてしまうこと、をディラックの「量子力学」で学んだ。そして量子力学がいかに完成された理論体系で、いかに代数的に整然と記述できるかを知った。またこの本のおかげで、「数式の示唆することを物理的に解釈する姿勢」と、「物理法則というのは、たとえそれが近似法則であっても美しいことが多い」ということを学んだ。

 その後一年間ほど、ディラックの論文を読みあさり、また同時に代数学、特に線形代数学を一から学び直した。そして幾何学へと移り、シンプレクティック幾何学という分野のあることを知った。このとき、幾何学最小作用の原理の接点を見出したのである。そしてここで、ファインマンディラックの両人が、最小作用の原理に言及していたことを思い出した。

 そしてこの分野が興味の中心となった。「最小作用の原理」から「変分原理」、「解析力学」、「ハミルトニアン系」と範囲は拡大していき、最終的には「カオス」まで辿りついた。なぜこのような道筋を辿ったのかは自分でもわからない。ただ、この「最小作用の原理」というものの持つ魅力は、かつてないほど強烈だったのをはっきりと覚えている。

 この記事では最小作用の原理とそれを囲む周辺を、できるだけ統一的に捉えるために、まずは基本的な部分から見直しを始める。これは自分自身の整理のためであり、雑多なメモ帳となんら変わりがないという点で、他の記事と比べ身勝手な記述や解釈が多いことをまず補足しておきたい。

 

 第一に扱うのは、「LECTURES ON PHYSICS, VOLUME Ⅱ, CHAPTER 19. THE PRINCIPLE OF LEAST ACTION」である。これはファインマン自身の講義を元にしたもので、示唆に富む名著だ。英文を日本語にして載せるが、これは翻訳ではないし、細かいところで説明を変える。ただファインマンの言いたいエッセンスはなるべく忠実に再現するつもりである。高校生だったファインマンの思い出から講義は始まる。

 「高校生のころ、私の物理教師だったBader先生がある日、物理の授業のあと私を呼び出して『退屈しているようだから、おもしろいものを見せてあげよう』と言うのです。そうして彼が教えてくれたものは非常に魅力的で、それ以来、いまでも私は魅了されています。その話題が上がる度に、新たな姿勢で取り組むのです。現にこの講義を準備するに当たって、分析をさらに進めている自分がいました。講義の心配をするかわりに、新しい問題を見つけて取り組んだもの――それは最小作用の原理です」

 学生はこの出だしに興味を引かれたことだろう。授業の進め方が突出してうまいのがファインマンの才能のひとつである。天才的な科学者がよい教育者であるとは限らないから、彼の教え方のうまさはひとつの能力だといっても過言ではないだろう。

 ここに質点があってそれを放り投げ、(たとえば重力場中を)ある点から他の点へと自由に運動させるとすると、質点は上昇してその後落下するだろう。質点は元の場所から最終地点へ進むのにある時間をかける。

 いま、質点が実際に辿る軌跡を自由に変えてみて、この仮想的な軌道を質点がまったく同じ時間をかけて移動するとしてみよう。そうして各瞬間の運動エネルギーから、質点のポテンシャル・エネルギーを差し引いたものを、時間に関して始点から終点まで積分してみれば、そこから導かれる数値は必ず、実際の軌道から得られるものよりも大きくなっているはずだ。

 Newtonの法則を\( \; F=ma \; \)という方程式で記述する替わりに、それを次のように言い換えることができる:ある物体がある点から別の点へと移る際に辿る軌跡は、平均運動エネルギーから平均ポテンシャル・エネルギーを引いたものを出来る限り小さくする。

 ここで平均といっているのは、積分という操作そのものが「関数」をひとつの「値」に対応させる写像であり、「変化する量」をあるひとつの「平均値」へと移すからである。ここでは時間に関する平均のことを言っているから、「与えられた時間の中で、より長い時間を占める関数の値」が平均値となる。

 もう少し詳しく見てみる。重力場のある場合、質点の地上から測った高さ\( \; x \; \)が\( \; x(t) \; \)という軌道(ここでは簡単のため一次元運動を扱う。だから質点は真上に上がって真下に落下する)で与えられるとすると、運動エネルギーは\( \; \dfrac{1}{2}m(dx/dt)^{2} \; \)で、ポテンシャル・エネルギーは\( \; mgx \; \)となる。各瞬間で運動エネルギーからポテンシャル・エネルギーを差し引いたものをつくり、時間に関して始点から終点まで積分する。時間を測り始めた時刻が\( \; t_{1} \; \)、このときの質点の高さが\( \; x(t_{1}) \; \)で、最終的に時間\( \; t_{2} \; \)で質点の高さが\( \; x(t_{2}) \; \)に達したとき時間の測定を終了したとしよう。するとこの積分は\[ \int_{t_{1}}^{t_{2}}\left [ \dfrac{1}{2}m \left ( \dfrac{dx}{dt} \right ) ^{2} -mgx \right ]dt \]

となることがわかる。

 

Feynman Lectures On Physics (3 Volume Set)

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物理法則はいかにして発見されたか (岩波現代文庫―学術)

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The Principles of QUANTUM MECHANICS

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