着想メトロ

アイデアとは、世界の捉え方を再構成することで新たな価値を獲得し、さらにそれを経験によって持続させる、一連のプロセスのこと。

ブログの名称を変更しました

 僕がパリにいたとき、メトロというもののイメージは一変したように思います。陽光が届かず薄暗い地下には、様々な匂い、音、気配がたちこめていて、その混沌とした様子に強いインスピレーションを得ました。

 そこには日常の生活とは異なる、世界の裏の顔が覗いていて、人々はぽっかりと口を開けたメトロの入口へと吸い込まれていくのでした。物乞いやホームレス、ビジネスマンや学生、警官など、多種多様な人々が行き交い、また車両内外での演劇や演奏、構内に貼られた広告などを見て、無数の文化活動がこの場所でひそかに交わり、そこを通り過ぎる人々の思考に何らかの痕跡を遺しているのだな、という奇妙な感覚に捕われたのを憶えています。

 そこは文化の中心ではなく、どちらかといえば辺境に属すのに、そこを通り過ぎる無数の人々は、そこから「何か」を吸収してまた地上へと旅立っていくのです。そしてこの「何か」が「着想」であることに、大分あとになって気付きました。

 思えばアイデアというのは、安定した状態からは生まれないでしょう。そこにはいつも何かしらの葛藤があって、心身の不安定な状態があり、着想が生まれるまでの揺籃期とでもいうべきものがあって、しかもそれは誰もが一度は体験しているはずです。これは着想を得るという不思議な体験が、一度「混沌」を介さなければならないということを示唆するのではないでしょうか。何もかもが入り混じり、無定形のものがひしめき合っているカオスな世界から、有形のものを抽出する、この行為が文化の基底を成す「創造」と呼ばれる活動なのではないでしょうか。

 そしてそのために、人々はまず有形のものをたくさん取りこんで、それを熟考し、エッセンス(無形のもの)をひきだします。するとこの無形のものが混ざり合って混沌を形成し、アイデアの土壌が生まれるのです。この状態を介した後、しばらくの時間をおくと、そこから何かしらの有形のものが再び生まれ、そしてその有形のものは、出発時にあったどの有形のものとも異なり、またまったく違うわけでもない、中性的な性質を帯びることになるのではないでしょうか。そしてこの繰り返しが、宇宙を「完全に」有形なものへと落ち込むのを妨げる、一種の文化生成装置になっていて、「かき混ぜ」作用を及ぼしているのです。

 ここまでくると、この世の中というものは、混沌と秩序の生成・消滅の連続が不断に進行する大きな舞台となっていることがわかります。そしてその舞台には、「わたしたち」という文化の継承者がいて、絶えず宇宙の秩序を崩し、再形成しているのです。

 このブログが、訪問者の方々に有形のものを提供し、混沌を成すための「通過点」となることを願い、この名称にしました。「メトロ」という言葉を選んだのは、混沌を象徴するものとしてですが、それだけではなく、そこを通り過ぎる人々を「アイデアの探究者」と見立てることで、その探求にこのブログの記事(駅)が、その通過点として役立つことを願うからです。僕のブログが、あなた自身の着想メトロの何番線になるかはわかりません。ただそのネットワークに組み込んでいただければ、このブログにとってそれ以上の存在価値はないように思います。