着想メトロ

アイデアとは、世界の捉え方を再構成することで新たな価値を獲得し、さらにそれを経験によって持続させる、一連のプロセスのこと。

動的境界

書評に挑戦してみる

 書評をしている方は数多いが、おもしろいのはなるべく書籍の内容を尊重し紹介すると同時に、自分の主観的意見を有機的な形で結び付けていく過程だと思う。というのは、書籍の内容をその「部分」だけ述べて紹介する場合、もちろんその魅力を十分伝えられないし、そもそも本がおもしろいという事実は、いつもその人の個人的体験に結びついているはずだからだ。なのでこの本はこういう本だ、と紹介する段階で、随所に紹介者の主観的意見が織り混ざることになる。この意味でそれを閲覧する人々は紹介者の物語を聞くわけだ。書評の役目は、どのように個人的経験を共感できる形で伝え、それを書籍の価値へと転換できるか、という点にある。

山口昌男『文化と両義性』

 今回紹介させていただく書籍は、山口昌男著『文化と両義性』である: 

文化と両義性 (岩波現代文庫)

文化と両義性 (岩波現代文庫)

 

 

  まずこの本を読もうと思った理由を簡単に説明する。ぼくは以前から「理解の仕方の多次元性」に興味をもっていた。ひとつの物事を理解するには、いろいろなアプローチがある。そしてある段階での理解が、より高レベルでの理解を可能にする出発点になる。他の人の理解の仕方をみると、その事物の本質をよりよく理解できる。それはまるで、対象をほかの視点からとった写真をみているようだ。

 こういうことが実際に起こるのをみて、「これって何だろう」と思った。あることを理解するとき、ぼくはそれに必要な道具をそろえなければならない。すっと理解できるときもあれば、いろいろと「回り道」をしなければならないこともある。これを「理解までの距離」と名付けた。

 では距離が大きいときそれは何を意味するのかというと、いままでの自分の常識から大きく外れたところにあるということだろう。すると普段の自分は「常識」という体系の中心にいて、理解しようとしている対象はここから少しまたは大きく外れた位置にあるということになる。この外れ具合が、理解の難しさに影響してくるのではないか。

 すると道具をそろえるという過程は、外れたところにある事物に「近付くため」というよりは、自分の依拠する体系をつくりかえて(あるいは移しかえて)、その事物に「適合させるため」にあるといった方が正確だ。

 すると理解のプロセスには必然的に「個人が依拠する常識の体系」が介入してくることになる。ここに差異があるから、理解までの距離の縮め方にも差異が出てくるのではないか。この視点はかなりぼくの気に入ったのを覚えている。

 こういう文脈のなかこの本を見かけた。タイトルを見て、著者の伝えたいことが即座にわかった(実は後にそれが思い違いだとわかった。著者の伝えたいことはぼくが思っていたよりもっと普遍的だった)。こうして手に取った本書を、二週間ほどかけてじっくり数度読みとおした。そのあとでもう一度いろいろな物事を眺めてみればどうだろう、いままでと違ってダイナミックな構造が見えてくるのだ。具体的な例を挙げると、以前書いた「異文化理解」についての記事がそれである。実を言うと、リンクの内容はこの記事の布石だった。著者が本書を通して伝えたことの普遍性、応用性の高さをアピールできているのではないかと思う。そういう意味で、ぼくなりの理解をアウトプットした形となる。これだけでもこの本を読んだ価値は十分にあった。ところがこの書籍の魅力はそれだけに収まらない。これについては後に詳しく述べようと思う。

10文字で本書を謳ってみる

 もちろんそんなことは不可能だが、それでも挑戦してみる。この本の中心概念だけなら、十文字でなんとかまとめられるのだ。それは何かというと、

交感の場としての境界

である。

目次

0. 岩波現代文庫版のためのまえがき

1. 第一章 古風土記における「文化」と「自然」

2. 第二章 昼の思考と夜の思考

 2-1. 双面の神

 2-2. 神話の普遍文法

3. 第三章 記号と境界

 3-1. 意味の多義性

 3-2. 混沌と秩序の弁証法

 3-3. 彼ら――異人

4. 第四章 文化と異和性

 4-1. 文化のプラクシス

 4-2. 女のディスクール

 4-3. 排除の原則

5. 第五章 現実の多次元性――A・シュッツの理論をめぐって――

 5-1. 学の対象としての生活世界

 5-2. 妥当性(レレヴァンス)

 5-3. ムージル『特性のない男』における多次元的現実

6. 第六章 象徴的宇宙と周縁的現実

 6-1. 世界の統一的把握

 6-2. 周縁的現実としての夢

 6-3. 社会における「中心」と「周縁」

7. 第七章 詩的言語と周縁的現実――両義性の彼方へ―― 

  まえがきで筆者は本書を理解するのに重要な概念装置「異和」について説明している。見逃してはならない大切な部分である。本文を読むまえに、目次だけ見ていろいろ妄想するのも楽しい。また個人的には三、五、六章がもっとも面白かった。

本書を大きな負担なく読むのに必要なもの

  • 神話論、意味論、記号論、存在論、発生論、象徴論、宇宙論など哲学の諸分野に関する基礎的知識と、その分野の中心的哲学者が何を問題とし、どういうアプローチをしているかの大ざっぱな歴史背景
  • 難解な言い回しを逐一分かりやすく言い換える根性
  • 抽象的な観念を逐一具体的なケースに応用する根性
  • 哲学基本用語の知識

 このうち第一の前提知識は、ぼくの場合まったくなかった。あくまで「負担なく」読むためのもので、これがなくても本書は読める。ただし著者が本書によって広範な諸分野を統一的に見渡そうとしているぶん、必然的に多くの研究例を随所で引用している。それに伴って各学者の言い分も著者が説明することになるが、それが実際にそうなのか、あるいは著者の一意見に過ぎないのかは本文だけでは判断できない。そこはのちの課題として取っておけばいいというのがぼくのスタイルだ。逆に考えれば、この本でそういう大ざっぱな知識を獲得することもできる。

 また哲学の基本用語に関しては中山元著『思考の用語辞典』を参照した: 

思考の用語辞典

思考の用語辞典

 

  あとは時間と注意力を注げば問題ない。

書評に入ります

 では書評を始めていく。冒頭で述べたように、ぼくが本書を読んで体験したことを軸にするので、各章について事細かに論じるつもりはない。それはぼくにとっても読者にとっても興味のないことだろうから。

 まずは大局。この本は哲学的だが、「鬱になる」哲学とは対極にある。「読んでいて元気の出る」哲学、「生命力あふれる」哲学だといってもいい。そうぼくに思わせた部分はおおざっぱにいうと以下の三つである:

  • 「構造」と「出来事」をつなぐ、記号のもつ仲介的役割
  • 過去は現在に埋もれているという視点(現実の多次元性)
  • 文化が相反する二つの対立項の無数の組み合わせで構成されており、一方(プラスの項)が存続するには他方(マイナスの項)を顕現されなければならないという相補関係(例えば生/死の対立や、秩序/混沌、内/外、男/女、中心/周縁、現実/夢、生活世界/周縁的現実、日常言語/詩的言語など)

 第一は語のもつダイナミックな働きを、第二は過去を媒体とした「思い出す」という行為が、現実に様々な方向性を与えているということを、ぼくに教えてくれた。

 そして最後の項は、存在のためには非存在が必要だということ、そしてその存在はたえず非存在によってその境界を動かされていること(存在は常に生成されていること)を示唆している。この視点は日常の様々な局面で確認できる(よく目を凝らせば)ことであるだけに、そのもたらした衝撃は大きかった。その意味でぼくの世界も新たな体系に作り変えられたのかもしれない。だからこの三つのトピックが言及されている部分を中心に本書を紹介していくことになる。

まえがき

 まずはまえがきからみていこう。ここでは文庫版刊行に際して、著者が「異和性」という概念を導入した動機を説明している重要な部分である。もうお気づきかと思うが、普通は「違」和とかくものを、著者はあえて「異」和と書いている。違和という言葉の原義は「心や体の調和が失われること」(『明鏡』)であって、一個の心身というミクロコスモスの内部性に関わる言葉であることがわかる。これを考慮して著者は、内側に属するものの違いを表す「違」と「和」の結びつきが、同質なものの差異をいう表現として自然であるとしたうえで、次のようにいう。

これに対して「異」は、本書で使っている別のキーワードである「異人」「異化」などに現れているように、外部性を表すものである。「和」は内部性の表現であるから、「異」「和」の組み合わせの「異和」は水と油の如く、一つの枠組の中で表現されるはずのないものであった。

 つまり文化の様々なレベルにおいて、「和」をなす部分とその外にある「異」との関係に焦点をあてるための概念装置として「異和性」を導入した。そこで「異」は和をなす側からみたら「理解不能」であり、「混沌」とした存在だということになる。こうした異質なものと接触する部分(境界部分)をもっとよく調べよう、そういう試みが本書なのだ。

第一、二章――神話に現れる異和性

 第一、二章では神話にみられる人間の思考の類型化作用を視覚化する。神話は物語であって、そこには象徴的登場人物、ストーリーの骨組がある。これらの要素間関係に一定のパターンがあるという事実は、人間の思考のなにか根源的欲求を反映したものなのではないか、これが動機となっている。

 第一章では古風土記をもとに、第二章は海外の神話をもとにして、この類型パターンの謎を解く。結論から言ってしまうと、それは「徴づけ」または「排除」「否定」という作用のせいなのだが、この言葉が出てくるのはもっと後である(第三章)。すなわち、文化の秩序を構成するのに肯定的側面を「善神(和魂)」として分離し、否定的側面を「悪神(荒魂)」として徴づける「排除の原則」が、こういった類型化の要因になっている。

 しかし文化はこういった「悪神」を完全に排除してしまうことはなく、常に周縁部分へ置いておく。つまり接点を持ち続けるように緊張関係を保っているというのだ。これは「善神」と「悪神」が本来両義的な唯一神であって、それを分離した二つの神性は相互規定的であるから、一方の存在を確認するためには他方が必要であることによる。よって対立項は分離されながらも常に境目を争っているといえる。こうした対立項の緊張関係(生成・消滅や、立場の逆転)が、神話にストーリーの骨組となって現れると考えられる。それは生/死の対立かもしれないし、文化/自然(混沌)の争闘を描いているのかもしれない。本書で例として挙げられている夜刀の神と麻多智のエピソードはこちら。 またこの視点(対立項の緊張関係の保持)は、ある種の年中行事の存在意義を読み解く手がかりにもなる(第三章)。

 第一章の冒頭で著者は混沌のもつ積極的な「結びつけ」の作用を強調する。

混沌の対象化は、秩序の確認の第一歩であったことは疑えない。混沌こそは、すべての精神が、そこへ立ち還ることによって、あらゆる事物との結びつきの可能性を再獲得することができる豊穣性を帯びた闇である。

 この言葉は第六章で周縁的現実としての夢を論じる際の布石になっている。つまり夢においては、表層意識の上では結びつかないはずのものが、新たな関係を獲得する。この点に着目すると、人間は個人のなかにすでに混沌と接するための周縁を保持しているといえる。

 第一、二章で重要なのは、こういった類型化を時間の経過の中で説明するのではなく、記号論的(つまり排除の原則にみられる、正と負の象徴を分離する作用のような象徴間の論理的関係)に解釈できるという事実である。

 注意しなければならないのは、これによって時間性を完全に排除してしまうわけではなく、時間という要因がその象徴間の関係そのものの中に内蔵されているという点だ。時代によって肯定/否定という観念関係は変化する。そういったパラダイムをフィルターにして捉えられた結果が類型化の仕方そのものに現れるわけだ。こうして神話思考に、その時代の「異和性」が密接に関わっていることを知る。

第三章――語は自らその定義を打ち破る!

 第三章は、個人的におもしろかったので比較的詳しくみていく。神話の次元で論じてきた異和性の問題を、今度は言語の「多義性」へと応用するわけだ。

 ここで筆者はおもにリクールとフッサールの論考を参照しながら、語の持つ仲介的役割に目をつける。印象的なリクールの言葉を本文から引用しておこう:

語は文より以上のものであり以下のものである。『Ricoeur, "La structure,  le mot, l'événement"(リクール『構造、語、出来事』)』

一見するとむっと思う表現だ。語は文の構成要素だから「以下」というのはわかる。だが「以上」というのはどういうことだろう。ここに語の仲介性が関わってくるのだ。

 文は一度解体されると消えてしまう。なぜなら文とは出来事(共時的)を表すからだ。しかしその文の中で使用され「ある現実を指示した」語は、その使用法を内部に蓄えて構造(通時的)の中へと戻っていく。こうした語の永続性、もっといってしまうと更新性が、語を「文以上のもの」ならしめる要素なのだろう。

 語は文脈の中に置かれて初めてなにものかを指示する。(意味を取り払った)構造の中では、語は相互規定し合う記号として、新たに指示するのを待機している状態だという点に注意する必要がある。

 以前、フランスの友人が祖母の誕生日会で、タブレット(tablette)を贈ったことがあった。友人の祖母はこのタブレットという名を聞いて「小さいテーブル」だと思ったそうだ。事実語tabletteにはそういう意味がある。ただそれが時代の変遷を経て、どこかで「タブレット」を指すのに文の中で用いられた。この使用法が語に蓄えられ、刻まれて、新しい指示物を獲得したのだ。

 このように、語は歴史を内部に取り込める性質をもつ。もともともっていた意味に、後から付け加えられた様々な指示対象が折り重なっていく。ここに語の多義性が生じるのだ。こういった語の多義性をうまく利用した文章を以前ブログに載せたことがある。急速な科学発展に伴い、語の意味に大革命が起こったのを実感できる。

 こういう極端な例でなくても、語は文の中で使用される度に、新たな対象を指示し、その使用法を蓄積させる。新たな対象とは新たな現実であり、出来事・文である。それまでは認識の外に属していた対象が、認識の地平に立ち現れるとき、それを表現した文の中の語は新たな利用価値を担うことになる。

 この語の可塑性が、わたしたちの認識をより微細な基準にもとづくものにする。そしてそれはとりもなおさずわたしたち自身に、新たな現実を認識しようとする、または認識できる可塑性があるからに外ならない。そうしてそういった新たな認識を与えるのはいつも、混沌としているものなのだ。ここで筆者が冒頭部分で述べた「豊穣性を帯びた闇」としての混沌が、よりよく理解されるのではないか。

 こうして各語の意味範囲が拡大していき、あるところで臨界点に達する。というものある語とそれに近い意味領域をもつ語は互いに牽制しあうからだ。ただここで拡大過程が終わるのではなく、新造語あるいは「徴づけ」という新たな局面を切り開いていく。

 ここでやっと先に触れた「徴づけ」という概念が出てきた。これはもともと言語学N・トルベツコイが意味の分岐を説明するために用いた概念だ。これも「徴なし」と「徴あり」の対立として捉えることが出来るが、「徴づけ」の作用の特徴はそれが「徴なし」のクラスにより小さなサブ・クラスを分離するというものである。

 たとえば最近ネット上で「情弱」という言葉が使われるが、これを「情強」との対立概念と捉えるよりは、平均人よりも情報収集能力の劣っている人々を揶揄する言葉だと捉えるほうが正確だろう。情報過多の時代特有の弁別概念だが、このように意識にのぼらない中性の範囲(平均人)から、マークされた(徴づけられた)下位範囲(情弱)が分離することを「徴づけ」という。この部分の細かい説明を本文から抜き出してみよう。

「徴なし」は記号論的に中和された範疇であるといえよう。「徴なし」の記号は、ふつうはより単純で、より淡彩的であり、何よりも、区別をしない現象の総体を示す(「スカート」の如く)。こういった文脈では、下位の類(サブ・クラス)が持っている属性のみが重要なものとなり、「徴なし」の一部の範囲が、このサブ・クラスを浮き立たせるために「徴」をつけられるのである(境界性の明示)。そこで、これまで独占的であった「徴なし」の記号は「徴あり」との対立関係に入る(そうでない場合、「徴なし」は別のレヴェルの他の項との関係で弁別されるにすぎない。たとえば「スカート」は「ブラウス」に対置される)。

 よって「徴づけ」とは、新たな現実の認知を通して、世界を弁別する基準をより微細なものにする作用をもつことがわかる。それはとりもなおさず、混沌にある秩序を生みだす。この「徴づけ」を促進する媒体として「異人」の積極的役割を見直すのが、第三章第一節後半の内容である。前にあげた異文化理解の記事でも述べたが、異文化をもつ「異人」と接することは、こうした「徴づけ」の爆発的増加を触媒する作用があるから価値があるのだ。本文からここの部分についての説明を引用しておく。

そこで我々は「異人」は、こうした記号論的分裂を常に促進する媒体(モディファイアーでありアクチュアライザー)であることを知るのである。つまり「徴を加える」変形主体または生気づけの主体のすでに存在している記号に対する関係は、より細かい、より微細な、より弁別的な基準を、以前は渾然としていた範疇に持ち込む働きをし、記号の細分枝化、記号論コードの増殖を可能にする途を提供することを知るのである。それゆえ、行為の「徴あり」、つまり弁別性のある下位パターンの出現は、より広汎な役割における新しい「徴あり」の、より限定されたサブ・カテゴリーの認知につながるはずである。

こうして秩序の体系が階層構造をなして整理されてゆく。著者が本文で「生気づけ」という言葉を用いているのは注目に値する。それだけ「異人」のもつ積極的な作用を評価しているということだろう。こうして、記号のもつ細かい意味作用は、対立関係にある項の存在によって逆に保障されることになる。

 この「徴つき」という概念をさらに拡張して、民俗的風俗に対しても適用してみる。つまり「徴つきの習俗」とは、秩序だった文化の中で、あえて混沌を喚起するような祭式・儀礼、または俗信、迷信、伝説などである。

 本文では扱われていないが、「怪談」もそうしたもののひとつではないかと思う。ぼく自身が怪談のファンであることもそうだが、「非日常」を定期的に欲する理由を探れば、徴つけられた習俗によって混沌(幽霊、死、非日常、恐怖)を喚起し、秩序の存在を再確認する必要があるから、と解釈できる。死を顕現させることで逆に生の輪郭が際立つのだ(境界の顕現)。じつは稲川淳二の怪談を愛好しているのだが、彼の話を聴いていると、こうした昔話とか怪談が「モラルの形成」に一役買っているのではないか、とも思うのだ。以下の動画を参照のこと(稲川さんは話すのが速いです)。二番目の動画で彼は怪談の本質を「どこまで逃げてもついてくる心の闇」といっている。この闇こそ創造・多様性の源泉であり、冒頭で紹介した著者の混沌に対する見解と重なるのではないか。失われてはいけない日本の大切な文化である。


「淳二稲川のねむれない怪談(はなし)」稲川淳二さんインタビュー01 - YouTube

「淳二稲川のねむれない怪談(はなし)」稲川淳二さんインタビュー02 - YouTube

「淳二稲川のねむれない怪談(はなし)」稲川淳二さんインタビュー03 - YouTube

 

 話をもとに戻そう。こうした徴つきの習俗が存在する意義を、前のように記号論のレベルで捉えてみると、徴なしの習俗に対する意味がより一層明瞭になるはずだ。本書ではおもに「神送り」の風習を例にとってこの点を論じている。ここで柳田国男の鋭い洞察を引用しておこう。

私などの想像では、村に疫病が流行し、又は稲田に虫が附いて、それから急に神送りを企てるといふ現在の流儀よりも、一段と古い形は毎年日を定め、まだ少しでも実害の眼に見えぬうちに、予め或期間の不安を除去して置かうとする、コト[儀式]の祭であつたように思ふ。是には勿論虫とか疫病とかの特定の敵は無い。ただ人間以上の力を具へた霊物が、余り久しく我々と雑居していると、末にはどういふ怖ろしいことを引起すかわからない。それ故に必要の期間が過ぎれば、田の神も正月神も又家々の祖神も、共に皆饗応して送りかへすことにしたのではあるまいか。

つまり神々を目に見える形で視覚化し(人形や神木など)、これを適当な時間・空間において処理することで、混沌(徴あり)を喚起すると同時にこれを周縁へと追いやり、逆に中心部分(文化の中心、徴なし)の存在を際立てて秩序を回復しようとする試みだと理解することができる。この部分をまとめた筆者の意見も引いておこう。

混沌は、好ましからぬ要素で生活の秩序には入ってきてもらいたくはないが、時と場所を限定して意識、話題にのぼることが秘かに望まれる要素であり、それは民俗の中で様々の形をとる。

 こういった言葉を聞くと、先の怪談を想い起さずにはいられない。怪談も時期を待って定期的に喚起される、待ち望まれる存在だろう。

 このようにして、文化が混沌と接し、生気づけられる場としての「境界」がもつ重要な役割が明らかになった。それは時間・空間的なものかもしれない(逢魔時三つ時や、橋、川、山、廃墟など)し、心身のある状態(病床に伏しているとき、極度の緊張・興奮状態など)かもしれない。こうした境界が文化の至る所に遍在していて、絶えずその境界が隔てているもの(特に「徴あり(中心に近い分一元的/意味作用の固定化)」から「徴なし(周縁部分に属するので多義的/多くの結びつきの可能性)」の方向で)を生気づけている。ここに本書の中心概念が凝縮されているのだ。

第四章――死との対話能力を失いつつある現代

 この章では女性の社会集団内部における「異人性」が主題である。女性は往々にして社会制度の枠にとどまらず自由奔放・想像力豊かであって、これが対立する象徴である「王権」の脅威となる。ある民俗は女性を根拠もなく糾弾し罪を告白させることで、王権の存在を再確認し秩序維持を図っているという例も紹介されている。

 著者はこの点についてミシュレの『魔女』を紹介しながら、「負の記号(徴あり)」がもつ積極的な生気づけ作用を力説する。ここで大事な点は、秩序が混沌(徴あり)の侵食から逃れるという動機によって保持されているだけに、対立する負の項の存在なしには、それ自身を維持できないという視点である。これについては第三章でも十分に論じてきた。第四章においては、特に「死」と向き合うのを忘れつつある現代に対する著者の一言を引用しておきたい。この言葉の指摘するところは現代の社会的問題の大部分を生む原因になっていると思われる。

殯宮(あらきのみや)古代儀礼に見られたように、「死」は、我々が絶対的な他者に直面して、我々の存在を、再び鍛えなおす絶好の機会であった。それゆえ、アーカイックな文化では、人間は、フィジカルな死を、神話および儀礼によって飾り立てるばかりでなく、成年式の際にも、シャーマニズムなどの術者になり変わる際にも、厄年に際しても、様々な機会を通じて、死を此岸の制度の中に取り入れたのである。産業文明が支配的な社会においては、特に死は、経済的にも社会的にも、最も簡潔な方法で処理され、我々の生活から遮断されてしまった。我々に遺されたのは、戦争とかクーデタとか、ある種の限られた政治抗争の形態による死との直面の機会のみである。しかし、それすら、日常生活の中に捉えられた平均人から縁遠いものになりつつある。我々の生きているのは、ある意味で、死との対話能力を失いつつある社会といい得そうである。

だからこそ、お盆や墓参りなどの文化を大切にしていきたいのだ。死が徹底的に排除されてしまったいま、死と対話する機会は貴重なものになりつつある。小林秀雄の以下の言葉もこの視点でみるとより一層印象的である。

「生きてゐる人間などといふものは、どうも仕方のない代物だな。何を考へてゐるのやら、何を言ひ出すのやら、仕出来すのやら、自分の事にせよ他人の事にせよ、解つた例しがあつたのか。鑑賞にも観察にも堪へない。其処に行くと死んでしまつた人間というのは大したものだ。何故、ああはつきりとしつかりとして来るんだらう。まさに人間の形をしてゐるよ。してみると、生きてゐる人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」

 死との葛藤の中に生がある。死と直面しそれをなんとか遠ざけて、境界をはり、生を築こうとするそのあがきを、彼は「一種の動物」的状態といっているのではないか。そしてその究極的状態としての死は、逆に完全な生の形を写し出す。だから死との対面は生の確認にほかならない。

 人間の存在は、その限界を突破することによって初めてその本質を立証することができるというバタイユの言葉を引いたあとで、筆者は次のように述べる。

この行為は、別の言い方をすれば「生と対立する諸要素の可能なかぎりの最大量を、できるだけ生を損なうことなしに、生のなかに導入しようとする」ということになる。

第五、六章――現実に埋もれた、過去というもうひとつの現実

 この章でもっともぼくの興味を引いたのは、過去の新しい捉え方である。過去を「再び生きられる可能性のある、埋もれた現実」として提出するのが第六章である。そのまえに、妥当性(relevance)という概念を用いて、現実の多次元性を発見してみよう(第五章)。

 ここで著者は、アルフレート・シュッツの論考を軸に置いて現実の多層性を示す。一つの現実には前提とされる知識の体系があって、人はこの現実によりよく適応するためこの知識を基準にする。この基準とされる知識の体系を「レレヴァンス」とシュッツは呼んだ。

 あるひとつの現実を受け入れることは、この現実に対応するレレヴァンスを価値判断の基準として採用することに対応する。そこで、異なるレレヴァンスをもつふたつの現実が接触した場合なにが起きるかというのが、異和性を議論しているわたしたちにとって興味ある話題だということになる。

 具体的に例を挙げて考えてみる。例えば数学をするときは、「公理系」というレレヴァンスを信用することになる。ところが数学の中にも様々な分野があって、例えば幾何学には幾何学の、微積分学には微積分学の、より特殊なレレヴァンスがある。そこでこのふたつのレレヴァンスがぶつかりあうと、その二つを包含した新たなより一般的レレヴァンスが生まれる可能性がある。これはいま「微分幾何学」として一大分野をなしているのだ。

 ただし数学の分野がなす数々の現実は、それらが相対したとき、そこに矛盾があってはならない、という枷を負っているという点で特別だろう。また注目すべきは、数学の体系が内部に矛盾を含まないということを証明できない、という証明が出た(不完全性定理)ということである。この意味で数学も、それが依拠している体系(レレヴァンス)に大きく依存していることになる。すなわち公理系としてのレレヴァンスの数だけ、異なる数学の姿があることになる。そしてこの公理系の妥当性が人間の直観(常識によって納得できる、という基準)によって支えられていることを考えると、数学というのはこうした「人間の、日常生活における世界のパターン認識が依拠するレレヴァンス」というひとつの現実から、「抽象化」というインデックスを媒体にして移行した先にある新たなレレヴァンスだというふうに捉えることもできる。これについては連続体濃度に関する記事も参照のこと。

 また異文化理解についての記事でも言及したように、日本にいるときとパリにいるときでは自身の依拠するレレヴァンスが異なる。つまり現実の移行が起きるわけだが、これを媒介するのはこの場合「モラルの高さ(低さ)」である。こうしてパリではより荷物管理を徹底しなければならないというレレヴァンスに支えられることになる。

 これらの例が示すように、現実はいくつにも折り重なっていて、わたしたちは複数の現実を移ろいながら生きている。そしてこの現実の移行を引き起すインデックスを、シュッツは「トピック」と呼んだ。このトピックは、論理的なものから、ある概念であったり、色・匂いなど五感に訴えるイメージかもしれない。このトピックが引き金となり、わたしたちは新たな現実へと誘導される。そしてこの際、過去に依拠していたレレヴァンスを捨て去り、新たな現実が依拠するレレヴァンスに適応することになる。新たな現実への移行は、新たな世界地平の認識にほかならない。そしてそれは多く偶然の要素を介したショックによって引き起されるのである。

「現実」の数は、人間がその感度をたよりに周りの世界を感知するアンテナの数に相当するといえる。これらのアンテナは、それぞれ特徴を持っているので、人は、彼が置かれている環境の中で、生存の条件を維持するのに最も役に立つアンテナを重点的に用いる。しかし他のアンテナは、主役を演じなくとも、同時に集音作用を続け、これらのデータを下意識の次元または身体の記憶として目だたぬ形で蓄積する。これらのアンテナの中には、未だに我々の眼にとどかぬ内蔵されたものもあることを我々は忘れてはならない。

 つまり中心的位置を演じている現実の周りでは常に、周縁的現実がアンテナに働きかけているわけだ。そうして蓄積されたデータが、何かのきっかけで認識の地平に現れるとき、それは新たな現実として獲得されることになる。この移行を媒介するトピックを本文では「周縁的トピック」と呼んでいる。つまり日常の中には目にとまらないだけで無数の周縁的トピックが身を潜めていて、その先にある未踏の現実(既知だと信じている事象の未知の側面も含めて)への扉を開いているのだ。これはわくわくするような視点である。実際に数学でも、既存の概念の新しい側面を開拓することが価値あるものとされる。これも言い換えれば、既存の現実の未知の側面が認識され、新たな現実として獲得される過程と言える。

 こうした周縁的現実は「夢」とか「過去」といった形で中心的現実の傍に身を潜めているのである。フッサールの次の言葉のなんと力強いことか。

「消え去ってしまった」経過や過去の存在も、当然主観にとっては、無になってしまったわけではなく、再び喚びさまされうるのである。そして、さしあたりただぼんやりと喚びさまされるというだけのものや、ばあいによっては次第に明確さを増しながら浮かび上がってくるもののそうした受動性には、ふたたび想起することもできるという可能な能動性が属しており、この能動性によって、その過去の体験は疑似的に新たに、また能動的に生きぬかれることになる。

 過去の回復の過程を見事に描いた場面として、著者はプルーストの『スワン家の方へ』を挙げている。少々長いが、現実に埋もれた過去の復興の繊細さがよく描かれていると思われるので引用しておく(一部省略)。

 少したって、陰気に過したその一日と、明日もまたもの悲しい一日であろうという予想とに気を滅入らせながら、私は無意識に、お茶に浸してやわらかくなったひと切れのマドレーヌごと、ひと匙の紅茶をすくって口に持っていった。ところが、お菓子のかけらの混ったそのひと口のお茶が口の裏にふれたとたんに、私は自分の内部で異常なことが進行しつつあるのに気づいて、びくっとしたのである。素晴らしい快感、孤立した、原因不明の快感が、私のうちにはいりこんでいた。その快感がちょうど恋の作用と同様に、なにか貴重な本質で私を満たしたからだ。いったいこの力強い喜びは、どこからやってきたのか? 求めている真実が、紅茶のなかではなくて、私のうちにあることは明らかだ。私はカップをおき、自分の精神の方に向きなおる。真実を見つけるのは精神の役目だ。しかしどうやって見つけるのか? 深刻な不安だ、精神が精神自身も手のとどかないところに行ってしまったと感じるたびごとに生ずる不安だ。精神というこの探求者がそっくりそのまま真っ暗な世界になってしまい、その世界のなかでなお探求をつづけねばならず、しかもそこではいっさいの持ちものがなんの役にも立たなくなってしまうようなときの不安だ。探求? それだけではない、創造することが必要だ。精神はまだ存在していない何ものかに直面している。精神のみが、その何ものかを現実のものにし、自分の光に浴させることができるのである。

 そこで私はいま一度自分に問うてみる、この未知の状態はいったいなんであったのか、と。ところが精神は、疲れるばかりでいっこうに目的に達しないので、それを感じた私は、これまで禁じてきたのとは反対に、むしろむりにも気を紛らせ、精神にほかのことを考えさせ、こうして最後の試みを行なう前に気力を回復させようとする。それからいま一度、精神の前方のものをすっかりと払って、その目の前にまだ遠くない最初のひと口の味をふたたびおいてみる。と、自分のうちで何ものかがびくっと震え、それが場所を変えて、よじのぼろうとするのを感じる、非常に深い水底で錨を引き上げられたような何かだ。それが何であるかは知らないが、しかしそれはゆっくりと上がってくる。

 たしかにこんなふうに私の奥底で震えているのは、イメージであり、視覚的な思い出であるにちがいなく、それがこの味に結びつき、その味のあとに従って、私のところにまでやってこようとつとめているのだ。だがその思い出は、あまりに遠いところで、あまりにぼんやりとした姿でもがいている。かすかに認められるのは、その鈍い反映だけであるが、そこには多くの色彩がかきまぜられ、とらえがたい渦をなして溶けこんでいる。

 この思い出、この昔の瞬間は、私のはっきりした意識の表面にまで到達するだろうか? よく似た瞬間の牽引力が、はるか遠くからやってきて、私の一番奥底の方で促し、感動させ、かきたてようとしている、この昔の瞬間は?

 そのとき一気に、思い出があらわれた。この味、それは昔コンブレーで日曜の朝、レオニ叔母の部屋に行っておはようございますを言うと、叔母が紅茶か菩提樹のお茶に浸してさし出してくれたマドレーヌのかけらの味だった。たぶんあれ以来、食べはしないが菓子屋の棚で何度もそれを見かけたので、そのイメージがこれらコンブレーの日々から離れて、もっと新しい別の日日に結びついてしまったためだろう。たぶんまた、こんなに長いこと記憶の外に棄てて顧みられなかった思い出の場合、何ひとつそこから生きのびるものはなく、すべてが解体してしまったためであるのだろう。それらの形態は、消え去るか眠りこむかしてしまい、膨張して意識に到達することを可能にする力を失っていたのだ。けれども、人びとが死に、ものは壊れ、古い過去の何ものも残っていないときに、脆くはあるが強靭な、無形ではあるがもっと執拗で忠実なもの、つまり匂いと味だけが、なお長いあいだ魂のように残っていて、ほかのすべてのものが廃墟と化したその上で、思い浮かべ、待ち受け、期待しているのだ、その匂いと味のほとんど感じられないほどの雫の上に、たわむことなく支えているのだ、あの巨大な思い出の建物を。

 ここで行われているのは、単なる記憶の想起ではなく、現実に埋没した「生きられた過去」の回復の過程なのだ。認識された瞬間には、心身のある特別な状態のもと新たな現実として体感されていたものが、意識を中心へと引き戻してしまう時間の過程で周縁部へと沈澱し、その存在を埋もれさせてしまった。ただしそうした周縁部も、たえず中心部分へシグナルを送っていた。そしてトピックとしての「マドレーヌ」が、主体を再び能動的な過去体験へと導きいれるのをじっと待っていたのだ。

 この「過去を思い出す」という行為は非常に繊細で微妙な構築物である。それゆえ再構築の手がかりが失われてしまうと、それを再び意識の表層へと浮かび上がらせるのは難しくなる。時間・空間はもちろん、そのときの心身の微妙な諸条件のバランスと、適切なコンテクストが重なったとき、現実に埋もれていた過去が新たな現実として体験される。生きぬかれる。このような体験は一度だがぼく自身もしたことがある。そのときには「実家の庭の槙の木」がトピックとなって、過去が現実として息を吹きかえした。

 こうした例をみると、小林秀雄の「無常といふ事」を思い浮かべずにはいられない。最後に彼の言葉を引用しておこう。ここで彼は巧みに「思い出し」ている。

「或伝(あるひといはく)、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つづみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれて伝、生死(しゃうじ)無常の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけ給へと申すなり。云々」

 これは、「一言芳談抄」のなかにある文で、読んだ時、いい文章だと心に残つたのであるが、先日、比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついてゐると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細勁な描線を辿る様に心に沁みわたつた。そんな経験は、はじめてなので、ひどく心が動き、坂本で蕎麦を喰つてゐる間も、あやしい思ひがしつづけた。あの時、自分は何を感じ、何を考えてゐたのだらうか、今になつてそれがしきりに気にかかる。

 「一言芳談抄」は、恐らく兼好の愛読書の一つだつたのであるが、この文を「徒然草」のうちに置いても少しも遜色はない。今はもう同じ文を眼の前にして、そんな詰らぬ事しか考へられないのである。依然として一種の名文とは思はれるが、あれほど自分を動かした美しさは何処に消えて了つたのか。消えたのではなく現に眼の前にあるのかも知れぬ。それを掴むに適したこちらの心身の或る状態だけが消え去つて、取戻す術を自分は知らないのかも知れない。

 確かに空想なぞしてはゐなかった。青葉が太陽に光るのやら、石垣の苔のつき具合やらを一心に見てゐたのだし、鮮やかに浮かび上つた文章をはつきり辿つた。余計な事は何一つ考へなかつたのである。どの様な自然の諸条件に、僕の精神のどの様な性質が順応したのだらうか。僕は、ただある充ち足りた時間があつた事を思ひ出してゐるだけだ。自分が生きてゐる証拠だけが充満し、その一つ一つがはつきりとわかつてゐる様な時間が。無論、今はうまく思ひ出してゐるわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出してゐたのではなかつたか。何を。鎌倉時代をか。さうかも知れぬ。そんな気もする。

 思ひ出となれば、みんな美しく見えるとよく言ふが、その意味をみんなが間違へてゐる。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思ひをさせないだけなのである。思ひ出が、僕等を一種の動物である事から救ふのだ。記憶するだけではいけないのだらう。思ひ出さなくてはいけないのだらう。

 上手に思ひ出す事は非常に難かしい。だが、それが、過去から未来に向かつて飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思はれるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思へる。成功の期はあるのだ。この世は無常とは決して仏説といふ様なものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常といふ事がわかつてゐない。常なるものを見失つたからである。

 ☞第七章――人間の自由

  この章での主題は芸術と詩的言語である。詩的言語とは、日常生活において意味作用が一元化し、中心的現実の慣習のなかで意味の多様性を失いつつある語の本来の多義性を刺激し、甦らせる働きをもつ言語である。

守旧的な日常言語に対して衝撃的な詩的言語が対置される。日常言語は、音韻と意味の機会的な結びつきの上に成立し、その慣習化によって維持される。日常言語は、物の指示能力の中でも、最も短距離的コミュニケーションを選択するから、迂回的連想を必要とする意味作用は被われて、見失われてしまう。この見失われてしまった意味作用を救出する努力、それが詩的言語に課された問題であるといってよい。

そこで芸術とは、「日常の見慣れた事物を、衝撃的で見慣れぬ文脈の中に置いて、その潜在的意味に再び注意を向けさせる手助けをするもの」だと捉えられる。この意味で「日常の異化」が芸術の本来もつ役割だと言えるだろう。この考えをもう少しおし進めると、詩的言語は日常言語の固定されつつある境界を侵犯し、掻き乱すことで境界の外の異和性の侵入を促す効果をもつとも言い換えられる。「徴なし」であった事物に徴をつけ生気づけることで、慣習化という檻の中から救い出す。

 ここで前の章で議論した現実の多次元性が再び想い起される。すなわち一元的で、固定されており、その境界が不動のものになってしまったように思える現実も、実は絶えず周縁的現実から侵犯される(生気づけられる)可能性を孕んでいる。そしてそれは、わたしたちが詩的言語を介することによって「能動的に」発見することのできるもうひとつの現実なのだ。人間は常に外界へと働きかけ新しい現実との出会いを探求しながら、自己の本質をよりよく理解してゆく。

 ここに本書が伝える最大のメッセージがある。すなわち人間の自由についての前向きな見方である。わたしたちの世界地平は無限の広がりと懐の深さをもつ。どこまでいってもそれは未踏の地を孕んでおり、わたしたちに発見されるのを待っている。未開の地を開拓する行為に、人間の能動性(周縁的現実への働きかけ)が不可欠だということは、人間の自由の問題に対する新たな視点を与える。本書の最後のパラグラフを引用しておこう。

フッサールは、心の地平の果てしなき拡がりを次のように説く。

 

 まことに、到達されたいかなる「根底」も再びその根底を指示し、開かれたいかなる地平も新たな地平を呼びさます。しかも無限の全体は、その流動の無限性のままに、意味の統一へと向けられている。しかしもちろんそれは、われわれがその意味をいきなり把握でき、理解できるということではない。そうではなくて、人が意味形成の普遍形式をある程度心得るやいなや、この全体的意味の広さと深さとが、その無限の全体性のままで、軸となる諸次元を獲得するのである。

 

我々が周縁性という主題の様々な変奏を繰り返しながら獲得しようとしたのは、このような全体的意味の広さと深さに至る展望の手がかりである。

 ☞まとめ

  広大な諸分野を俯瞰する本書も、最終的にはひとつの大切なメッセージ、すなわちこの世界は人間の自由に寛容だということ、「世界の可塑性」を伝えようとしている。そしてそうした可塑性はいつも、絶えず動く境界部分で起こるのだった。境界の外にある「異和性」へと積極的に注意を向けていこう、それが著者の言いたかったことのなのだ。あらゆる文化(個人)が、混沌(外/周縁)と接触する機会(異和)をつねに保持することで、事物の潜在的可能性を彫り出し、価値体系の可塑性をもたらすことで、それ自身を豊かなものにしているということが、ぼくが本書から得た重要な知見だ。

 ここにくると「異和性」という言葉にも新たな意味合いが出てくる。すなわち「異」を「和」とする、「外にあるものを内にあるものと結合させ、新たな価値を組み直す」という文化作用を的確に表した表現とみることもできる。

 いま、科学の諸分野は非常に細分化して、それぞれの専門領域が占める領域の固定化が大きな問題となっている。ここはあちらの分野に任せておけばいい、という傾向が、分野間のコミュニケーションを閉ざしているのだ。しかし近年になって、分野間の境界部分で研究を進める人も増え始めてきた。こうした人々が、隣接する諸分野に異和性の風を吹き込んで、生気づけることが期待される。実際にぼくが研究している分野も、物理・生物・数学が積極的に交わる部分にある。そうした文脈の中、本書に出会えた意味は大きかったように思う。

今後の課題――さらに詳しく読み進めたい研究者など

  今回この本を読了するにあたって、新たな課題も見えてきた。ぼく自身はフッサールに興味を持ち始めたので、彼の著作にあたってみたいと思う。そしてフッサールからサルトルメルロー・ポンティ、ベルクソン系譜が繋がっているようなので、この順番で彼らの著作にも触れてみようと思う。フッサール以外全員フランス人なので、原著をあたることもできるが、いまはそれは考え中である(翻訳と並行して読み進めると思う)。

 

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

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