着想メトロ

アイデアとは、世界の捉え方を再構成することで新たな価値を獲得し、さらにそれを経験によって持続させる、一連のプロセスのこと。

異文化理解は異文化不理解から始まるということ

 ☞パターン認識で世界を構築

 わたしたちが「世界」とか「宇宙」とか呼ぶものは、つまるところ何なのだろうか。「わたしたちを囲むすべてのもの」とでも言えるかもしれない。もっと正確にこの対象を把握するためにいくつかの問いを立ててみる:

  • 「世界」はそこに「ある」のか、それともそこに「あることがわかった」のか。
  • わたしたちは「世界」をどう認識しているのか。
  • その認識の仕方は各人に共通しているのか。
  • もし違うとすれば、どこに差異があるのか。
  • またその差異が生まれるのはなぜか。

 このような問いに答えようとする前に、それがなぜ問題になるのか、ということを考えるのが大切だ。原初の段階で、人類ははじめからこのような疑問をもっていただろうか。そうは考えられない理由は以下の通りである。まず、世界の「存在」そのものを問題にしようとするとき、わたしたちは一度世界を疑わなければならない。「あたりまえ」にそこにあった自分の世界を「揺るがす何か」に遭遇しなければならない。それは物理的・精神的なショックであるかもしれない。いずれにせよ、存在自体を問題にするとき、わたしたちは同時に非存在を把握しなければならない。

 これは非常に高度な弁別能力だろう。自身を取り巻く具体的な事物から離れて、抽象的な存在として自分の世界を再度眺めなければならないからだ。そしてこれができるためには、例えば異なる文化圏に属する人に接するとか、あるいは同一の共同体内でも男と女の根本的差異に接することで、世界は自分のものだけではないことが徐々に実感とならなければならない。自分のあたりまえが他者にとってはそうでないことに気付いていく。

 こうした過程を経て、だんだん自分の世界と他者の世界を区別できるようになる。そしてそれに伴って、逆に他者と共有できる世界を探し求めることもする。コミュニケーションである。こういう行動は、まず最初のステップで他の世界がありうるということがわかっていなければ、生じ得ないだろう。つまりあるレベルでの世界の認識が、さらに進んだレベルでの認識を可能にするわけだ。

 

 このようにわたしたちの世界理解は階層構造をとっている。そしてこういう構造によって世界を秩序立てることで、よりよく世界を把握できる。それはわたしたちを安心させる。誰も理解不能な世界に留まりたくはないだろう。自分の世界が決して絶対ではないと知ることは不安を煽る。何か確固とした柱がほしい。自分の属する世界を際立たせる何かだ。こうして人はあえて他者と交流する。自分と他人の世界をいろいろに比べてみてその違いを見出すことで、逆に自分の世界が際立って認識される。そうやって「秩序」をかためてなわばりとするのである。

(追記)友人が紹介されている、パリで教える哲学者のブログに、形容詞intéressantがもつ第三の意味について、おもしろい記述があったので引用しておく。

ブラッグがここで強調したいのは、この第3の意味である。彼はラテン語の語源、inter-est から、この意味を規定する。 « inter » は「~の間に」という意味の前置詞。 « est » は動詞 esse 「在る」の三人称単数現在。したがって、この第3の、語源に最も忠実な意味は、「~の間にある」ということになる。では、何の間にあるのか。ここからがブラッグの強調するところなのだが、「私たちと私たち自身の間」にあるということだという。しかし、なぜ私たちと私たちの間にあるものが intéressant なのか。それは彼によると、私たちが私たち自身を知るのに必要だからだということになる。つまり、何かが私たちにとって intéressant なものとして現れるのは、それが自分たち自身を知るために私たちが必要とするもの、それを介してはじめて自分がよくわかるようになるものだからなのだということである。私たちが自分たち自身へと至るためにそこを通っていかなくてはならない物事が、この意味で、私たちにとって intéressant なのである。フランス語の再帰代名動詞の « s’intéresser à quelque chose » という用法は、intéressant が内包しているこの反省的構造をよく示しているとブラッグは言う。通常「何かに関心がある」と訳されるこの表現は、この第3の意味に忠実に訳せば、「何かに関係づけることを介して己自身を知ろうとしている」ということになる。
 ここからは上のブラッグの説明に基づいた私自身による敷衍。Intéressant のやはりラテン語に由来する古い意味に「違いをもたらすもの」という意味がある。この意味と先の第3の意味を組み合わせれば、私にとって intéressant なものとは、「私自身を変え、その変化を通じて、私に私自身を理解させるもの」ということになる。私がある対象に強い intérêt (関心)を持てば持つほど、それだけ私は変わり、自分はどんな人間なのかがよりよくわかる。何も intéressant なものがないということは、自分で自分がわからないと言っているに等しい。毎年、学年の初めに、すべての授業で、学生たちに、「この講義で学ぶ事柄が、あなたたちにとって、この第3の意味で intéressant なものになることを心から願う」と繰り返す。

 これは個人にも共同体にもあてはめられる、人間の思考の基礎を成すものだ。「あたりまえで認識できていなかったものが、なんらかの要因でひとつの対象として認識できるようになる」ことが、あらゆる人間の営為を形作っている。

 前に集合の話を記事にしたが、ここでも問題となっていたのはパターン認識であった。集合をつくるには、事物に共通の性質を抜き出さなければならない。すなわちあるパターンを抽出する。これが数学の基礎を成しているのだ。また同じ記事で、無限のなかにも強さのあることがわかった。これもよく考えると、なんらかの構造を無限という概念のなかに見出したのだからパターン認識である。こうしていままで「無限」とひとくくりにされていたもののなかに、カントールは「濃度」というクラスを持ちこんだ。そしてそれによって新たな世界構築に貢献したわけだ。より高度に細分化された(ここでは無限が細分化されている)世界では、より進んだ問いを立てることができる。すなわち「自然数がもつ無限の濃度と実数のもつそれの間に、中間の濃度は存在するのか」という問いである。この問いは、そもそも無限のなかにクラスが存在しているということがわかっていなければ考えられないだろう。

 以上を踏まえると、世界はそこにあるのではなく、そこにあることがわかったのだといえる。確かにわたしたちは世界を直接知覚することができる。いまだって音楽をかけながらキーボードを叩いている。ぼくは世界を体感している。だがこの認識、世界存在の認識は、それが「ぼくという存在の外」として認識されていないかぎり、世界であることはできない。「なにかがぼくを取り囲んでいる」というとき、それはぼくの外になければいけない。こうみると「自分とはなにか」という類の問いも無数に生まれてくる。要するに自分の外が世界であり、世界の外が自分なのだと考えれば、このふたつの認識は相補っていることがわかる。さきほどの「自分の世界」と「他者の世界」との対立のように、ここにも新たな対立が生まれた。そして二つの認識を隔てる境界は、固定されているわけではなく常に変動している。世界と自分の関係は常に変化している。あらゆる対立は、その境目を争っている。これは非常に大事な点である。

 こうしてあらゆる対立を認識することで、わたしたちは自分固有の世界を構築している。固有と書いたのは、認識の仕方(つまり対立の認識)が個人または共同体の置かれている物理的・社会的条件に強く影響を受けるからだ。誰ひとりとして同じ仕方で世界を体験していないからである。こうして、ある人のある世界は非常に細分化していて、きめ細かく捉えられている一方、ある世界はそれほど認識が進んでいなくて理解が浅いということが起こる。各人の生きている現実という世界は、このように多層であり、あらゆる方向性をもつ

 これでわかるように、わたしたちの世界がよりよく認識・理解されるのに、境界という観念が重要な場を提供している。ある対立が生まれるのは、いつもこの境界であり、また対立模様のダイナミックな変化もこの場を通して生まれるのだ。そしてこの境界が拡大したり縮小したりして、世界は千変万化する生命体の如く活発に自身を組織化する。そしてこの自己組織化を促進するには、あたりまえの外に接しなければならない。異文化というのは、こうした機会を豊富に与える場として価値をもつのである。

不理解から新たな認識が生まれ、世界はよりきめ細かに

 異文化に接するということのもつ価値が、以上の議論からはっきりとした形でみえはじめた。どうして異文化理解が大事なのかというと、それは異文化不理解を通した世界の再構築を可能にするからである。そして世界を再構築するとき、わたしたちは不理解から生じる新たな対立を獲得するわけだから、より微細な基準で世界を捉えることができるようになる。具体的な例を挙げよう。

 パリの空港や駅などで荷物を置いてその場を離れると、戻って来たときにはなくなっている。こうした体験は実際に何度かした。パリのモンパルナス駅でボルドー行きの列車を待っていたときの話である。ぼくのほかにフランス人の友人が一人いて、一緒にカフェの前のベンチに腰かけていた。このとき背中合わせになっている二つのベンチのうち、ぼくらが使っていないほうに、持ち主の見当たらない荷物があることに気付いた。後に話を聞くと、友人も気付いていたそうである。しかしこれといって意識することなく、友人と会話しているとそんなことなどすぐに忘れてしまった。

 二、三分経った頃だろうか、後ろから女性に「ここにあった荷物を知らないか」と訪ねられたので視線を遣ると、さきほどまでそこにあった荷物が忽然となくなっていた。わずか数分、しかも大勢の人が行き交う駅の構内である。女性の荷物の中にはパスポートやクレジットカードの入った財布など、およそ必要なものすべてが入っていた。すぐに駅員へ声を掛け状況を説明すると、女性はこの駅員とともにどこかへと去っていった。

 こういう経験を通じて、日本ではあたりまえだったことが実はそうでないことに気が付いた。これがショックである。よくカフェなどで用を足しにいくのに荷物を置いていく人があるが、それはパリではできないことなのだ。こういう極端なケースでなくても、地下鉄などで荷物から財布を抜き取られた友人は何人も知っている。

 こうしてショックを通して新たな対立が生まれた。「荷物管理の徹底さの至らなさ」とか「モラルの無さ」という認識である。ぼくの生まれ故郷では、朝市などたいてい無人販売である。町人は代金をそこにおいて商品を取っていく。いまでもそれはちゃんとあるから、支払いをせず商品だけ取っていくということをする人がいないのだろう。これが「異常」だということを認識するには、この反対項を経験しなければならない。そうしていままで認識されていなかった「モラルの高さ」が意識にのぼり、ポジティヴな価値を付与されることになったのだ。世界が細分化されたのである。

 以後フランスにいるときは(とくにパリでは)、荷物から意識を逸らさないし、また公衆の面前で現金を取り出したり、不用意に日本語を話したりしないようにしている。こういうことが自然とできるようになった。それはぼくが、土地を変えるとともに、自身の属す世界をも自然と移しかえているのだとみることができる。現実が多次元だという意味はここにある。こうして新たな世界を獲得したわけだ。

アンテナが敏感になり、世界が一気に拡大する

 こうして異文化に接し、その不理解(ショック)を通じて世界が細分化すると、いままでより多くのことを認識することができるようになる。それは友人を介してかもしれないし(事実、異文化交流していると、人とのつながりがとても広くなる)、語学やインターネットサイトからかもしれない。いずれにしろ大切なのは受信力が大幅に増すということだ。

 前にも述べたように異文化への接触は多くの対立を生むから、新しい世界の地平がひらけることになる。そしてこの新たな舞台でしか立てられない問い、認識できない概念というものにも手が届くようになる。これが知的交流の源泉となる。それはわたしたちの世界・日常生活を彩り豊かなものにし、未知なるものに接する機会を絶えず提供してくれる媒体となる。こうしていままでより多くのことに対して敏感になり、またより深い理解、より進んだ問いかけができるようになる。これが受信力、そしてさらに発信力の増大にもつながる。

 思うに、人間の知的好奇心の原点はここにあるのではないか。自分が理解できないことをなるべく減らし「なわばり」を拡大していくのである。言い換えれば「境界」を遠ざけていくのだ。こうして外にある世界のなかに、「秩序だった世界」と「わけのわからない世界」といった対立も生まれてくる。この秩序だった世界を拡張整備することこそ、人類の知性が根源的に欲求するものであり、また文化という営為を維持する一大機構を形成しているのかもしれない。

まとめ

  • 異文化理解を語るまえに、異文化不理解に出会うこと。
  • その不理解は世界拡大のための契機と成り得るから、大事に温めて自分のなかに取り込むよう努めること。
  • 自分のなかに新たな世界が構築されていくのを実感したら、今度はその世界でしかできないことをやってみる。より進んだ疑問を投げかけること。
  • 自分のすぐそばに異文化を置いておくこと。そういう環境を作る努力をすること。理解不能の源泉がすぐ近くにあることは不快感を催すかもしれない。それならそれでかまわない、一旦距離を置く。そしてそれを再び欲するときを素直に待つこと。
  • たくさん受信したらそれと同じだけ発信すること。

 ぼくはつねに以上のことを心がけている。もちろん、たまに理解不能すぎて嫌になることもある。ところが時間を置くと不思議なもので、また活力が湧いてくる。知的刺激を求め虫みたいに集りに来るのだ。それは「人は自分の理解できないことに実は惹かれる」という事実の現れではないか。そしてそれが理解できたとき、世界が揺れ動いて再構成される。新たな地平が目の前に開ける。