着想メトロ

アイデアとは、世界の捉え方を再構成することで新たな価値を獲得し、さらにそれを経験によって持続させる、一連のプロセスのこと。

パターン認識能力は数学の基盤――ものをカテゴリー化する『集合』という概念

カントールという数学者と無限

 カントール集合論の創始者であって、はじめて「無限」という概念に真正面から向き合った人物である。ただしこれは危険なことで、事実彼は晩年精神を病んでいた*1

 現実世界において無限であるものなど存在するだろうか。この世界はどこもかしこも有限のものによって構成されているとすれば、無限を真面目に考えるのは人間の許容量を超えているのかもしれない。

 あの大数学者ガウスも、意識的に無限と向き合うのを避けていた。ガウス彼自身に関しても、早くから「虚数」という概念を獲得していた(二乗して負になる数)が、世間に公表するのをためらっていた。というのも、それがあまりにも先進的過ぎ、またそれゆえに世間の人々から「狂気じみている」と思われるのを懸念したのだ。革新的なアイデアというものはときに世間の反感を買う。それゆえに慎重に扱われねばならない。

 ガウスには面白い逸話が数多くある。彼が小学生のとき、教師が自然数を100まで足した合計はいくつになるかという問題を出した。少年ガウスは、小さい自然数と大きい自然数でペアをつくっていき(1と100、2と99、のようにして50と51までの50個のペア)、そのペアの和がどれも101であることから101×50=5050という解答をすぐさま与えて教師を驚かせたようである。また積分という概念にも早くから自力で到達していたようだ。

 ただ個人的には、「数学的な無限」というものは存在すると思うし(また実際にそれはかなりはっきりした数学概念であることは事実である)、現実生活においても「無限」はあると考えている。幼少時代、木登りをよくしていたが、木を登って高いところにいくにつれ視界が開けていくあの感覚、地平を見渡せたときのあの開放感は、「無限」というものの直観だったといまは納得している。

 また「神性」というものも無限をインスパイアーするものだと考えられる。ぼく自身は一神教を信仰していないので深入りは避けるが、カントールが無限と向き合っていたとき、彼はおそらくこのような神性を現実での無限の現れとして頭の片隅に置いていたのだろう(『無限とはなにか?』、脚注1参照)。

 人間は未知を想像することができる。「仮定」の能力である。この力は数学的な思考の基礎を「パターン認識」とともに成すし、またこの「とすれば」思考が現実世界での無限を形成すると考えている。我々が宇宙の向こう側の混沌に思いを馳せるとき、それに伴うあの底知れない闇を覗いた感覚こそ、無限というものの本質ではないか。

 ここでカントールが遺した名言を引用しておこう。

数学の本質はその自由性にある。

 ☞集合とはなにか

 我々は知らず知らずのうちに集合という概念を用いている。集合とはその意味する通り「ものの集まり」である。ところでこの「もの」をどう集めるかというと、ある基準に従ってだろう。集めるべきものを決めるルールと言い換えてもいい。たとえば「日本人」と我々が言うとき、これはある共通の特徴を持った人の集団を指す。そしてこの集合を構成する個々の要素「日本人」は、「日本国籍をもっている」というルールに従ってひとつの集合にまとめられるわけだ。これはもっとも素朴な意味での集合であって、数学的な取り扱いには、もう少し「正確さ」が要るようになる。日本人という集合を規定する方法は人によって違いがあって、もし「日本語を話す」というルールを基準にしたらどうなるだろう。集合「日本人」を構成する要素「日本人」は人によって異なることになる。周囲には日本語を日本人並みに話す外人がたくさんいるからだ。

 ここで集合を表現する大きな二つの方法を紹介しよう。「外延」と「内包」である。前者はある集合をひとつひとつ列挙する表現、後者はその集合を構成する要素がもつ共通の性質で表現するものである。ここに有限集合\( \; A \; \)があるとする。この集合を構成する要素を\[ A=\{a, \; b, \; c\} \]とかけばこれは外延的な方法であって、\[ A=\{x|\phi(x) \} \]とかけば内包的である。\( x \; \)という要素が満たす条件(共通の性質)を\( \; \phi(x) \; \)として、この条件を満たすものをすべて集めたとき、その要素は\( \; a, \; b, \; c \; \)の三つであり、この三つの要素からなる集合を\( \; A \; \)と名付けるということだ。つまりこの二つは集合を定義する方法である。例を挙げよう。

 いま自然数全体の集合\( \; N \; \)というものを考えるとき、これは無限集合である。なぜかというとそれを構成する要素が無限個あるからである。これは直観的に明らかだろう。「数える」という行為は基本的にいつまででも続けられるからだ。この集合を\[ N=\{1, \; 2, \; 3, \ldots\} \]と書くこともできれば、\[ N=\{n|n\in \mathbb{N}^{+}\} \]と書くこともできる。ここで注意したいのは、外延的に述べるときの「\( \; \ldots \; \)」なる記号はこの場合「同じ操作をこの後もずっと繰り返す」という意味であって、自然数の構成方法、すなわち「順に一を足していって得られるすべての数」だということがわかっていることを前提としているし、一方内包的な定義の方も、集合\( \; \mathbb{N}^{+} \; \)というものが定義されていないといけない。この場合は二つの方法にあまり大きな質的差はみられない。

 なおこの記事では\( \; \mathbb{N} \; \)は数\( \; 0 \; \)を含むことにする。\( \; 1 \; \)以上の自然数を考えるときはこの集合を\( \; \mathbb{N}^{+} \; \)と記す。また単に「自然数」といったときはゼロを含めないことにする。

 では次に「数\( \; 1 \; \)と、それより小さい正の有理数で、分子が\( \; 1 \; \)であるもの」という条件を満たす集合を表現してみる。この集合を\( \; M \; \)と名付ける。まず外延的には、\[ M=\{1, \; 1/2, \;1/3, \ldots\} \]となり、内包的には\[ M=\{m|m=1/n, \; n \in \mathbb{N}^{+}\} \]となる。どうだろうか。前者の方が曖昧だろう。というのも、まず集合\( \; M \; \)の要素を構成する方法が十分明確でない(もしかすると分母が素数であり、分子が一である有理数の集合に\( \; 1 \; \)を合わせた集合であるかもしれない)し、また「正」という条件を外延的に表すことができない。というのもこれは数の質的性質だからで、これは潜在的に内包的であるからだ。一方後者に誤解の余地はないだろう。一般に無限集合を扱うときは、正確さの点で内包的表現をするほかない。また誤解のないようできる限り明確に集合を規定しないといけない。

 さて、集合の集合というものも考えることができる。素朴には「日本人」と「フランス人」という二つの集合を要素として含む集合などである。記号の使用法に関してちょっとした注意をしておく。\[ A=\{1, \; 2, \; 3\} \]と書いたとき、この集合は外延的に完璧に定義されていて、\( \; 1 \; \)は集合\( \; A \; \)の要素である。これを\[ 1\in A \]と書く。こういうふうに書くときは、\( \; 1 \; \)を集合\( \; A \; \)の下位要素として見ていることを意味する。このとき\( \; 1 \; \)を集合\( \; A \; \)のという。ここでもし\[ \{1\} \in A  \]と書いたら、これは\( \; 1 \; \)を一点のみからなる集合と見ていることを意味する。このとき\( \; A \; \)は集合を要素とする集合となる。もちろん\[ A=\{\{1\}, \; \{2\}, \; \{3\} \} \]と書かなければならない。\[ 1 \subset A \]のような書き方はしないから注意しよう。というのもこれでは\( \; 1 \; \)を\( \; A \; \)の下位要素として見ているにも関わらず、包含関係(同位の集合間で規定される関係)を比べているからである。

ラッセルのパラドックス

 ちょうどいいのでここで面白い集合を紹介しておく。自身を要素として含まないような集合をすべて集めた集合\( \; E \; \)を考える:\[ E=\{e|e \notin e\} \] ところで自分自身を要素として含むような集合などあるのだろうか。一例を挙げると「すべてのインターネットサイトをまとめたサイト」などである。「すべての蔵書を記した図書館目録」もその類だろう。こういう集合ではない集合をすべて集めた集合というものを考えようというわけである。そこで次の命題の真偽を問う:「集合\( \; E \; \)はそれ自身を要素として含む」。これを真であると仮定すれば\( \; E \in E \; \)となるが、すると集合\( \; E \; \)は「それ自身を要素として含まない」という条件を満たしていないから、定義より\( \; E \notin E \; \)となってしまうので矛盾する。そこで偽であるとしてみると、今度は\( \; E \notin E \; \)となるのだが、これは条件を満たしてしまっているので\( \; E \in E \; \)となりまたしても矛盾である。つまり真と仮定しても偽と仮定しても矛盾に行き着いてしまうわけだ。

 この種の矛盾はありがたくない。ここにきて数学というものの限界が見え隠れし始めたのだった。一切の命題は真か偽であるかのどちらかであるという信念はここにきて崩れ去ったのである。しかし、この例はほんとうに「数学的」命題なのだろうか。述べ方がまずいという可能性はないだろうか。

 このような命題を「自己言及」という。LOGICOMIXという面白いマンガにもうひとつ自己言及の例が出ている。

「ここにある村があって、すべての成人男性はあるルールに厳密に従って髭を剃るという。彼らは毎日欠かすことなく髭を剃るが、自分で剃らなくてもよい。というのも村には一人の床屋がいるので、もし自分で髭を剃りたくないものは、この床屋に剃ってもらうというのだ。では、この床屋の髭は誰が剃るのだろう。もし自分で自分の髭を剃るとしたら、彼は髭を自分で剃りたくないことになり、もし自分の髭を剃らないとしたら、彼は床屋に髭を剃ってもらわねばならないが、それは彼自身であるから自分の髭を剃ることになる」LOGICOMIX(仏語版), p164-165.

もうひとつ例を挙げておこう。

「1905年、フランスのディジョン出身の数学教授ジェール・リシャールは、数のパラドキシカルな定義を発表した。『二十語以内の英語で定義できない最も小さな数について考えてみよ』("Consider the smallest number not definable in English in less than twenty words")。だがリシャール自身、この数について(英語で)十三語で述べているのだ!」一灯舎『無限とはなにか?』第二章, p41. 

 自己言及はしばしば「無限」を示唆する。このように、集合論の発展と無限への考察というのは密接に関わっているのである。さらに次のような例も考えられる。「数える」という行為をカウントしなければならないとする。いま目の前にひとつのリンゴがあって、被験者はこれを数えたとしよう。彼は数えたのだから、一回カウントする。ところでこのカウントも「数えるという行為」なのだから、彼はもういちどカウントする。そしてこれもまた数える行為だから、というふうに無限ループへと陥るわけだ。

 最初の例においては、命題の真偽を議論するための、「集合」という概念の定義が、明確でないからこのような矛盾が起こったのだ。要するに命題の枠を超越した「神」の存在が、この命題の真偽を明らかにするには必要であることになる。もし「それ自身を要素として含まない集合をすべて集めた集合」を集合と認めないならば、この命題は数学で対処するものではないことになるし、そうでないならば数学は内部に自己矛盾を含むことになる(正確には「内部に自己矛盾がないことを証明することはできない」)。真でも偽でもない数学的命題が存在することになる。これは直観に反することだろう。すべての命題は「本当」か「嘘」であってほしいからである。これに関して岡潔が興味深いことを言っている。少々長い引用となるが、大事なことを言っているのでまとめて載せる。

「数学は知性の世界だけに存在しうると考えてきたのですが、そうでないということが、ごく近ごろわかったのですけれども、そういう意味にみながとっているかどうか。数学は知性の世界だけに存在しえないということが、四千年以上も数学をしてきて、人ははじめてわかったのです。数学は知性の世界だけに存在しうるものではない、何を入れなければ成り立たぬかというと、感情を入れなければ成り立たぬ。(中略)最近、感情的にはどうしても矛盾するとしか思えない二つの命題をともに仮定しても、それが矛盾しないという証明が出たのです。だからそういう実例をもったわけなんですね。それはどういうことかというと、数学の体系に矛盾がないというためには、まず知的に矛盾がないということを証明し、しかしそれだけでは足りない、銘々の数学者がみなその結果に満足できるという感情的な同意を表示しなければ、数学だとはいえないということがはじめてわかったのです。じっさい考えてみれば、矛盾がないというのは感情の満足ですね。(中略)矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。(中略)その感情の満足、不満足を直観といっているのでしょう」小林秀雄全集、第十三巻『人間の建設』p154-156.

 集合論という時代の流れは、皮肉にもゲーデルによる「不完全性定理」を招いた。数学の論理というものは完全ではなく、ある種の「曖昧さ」「脆弱さ」がある。それは人間の論理的思考の根本に関わる複雑な問題であって、数学という強力な手法も適用できる範囲に限界があることを示唆する。そしてさらに重要なことは、その事実に人類が気付けたということなのだ。そこまで数学(人類の数学)は進歩した。

番号を振って並べられる程度の無限

 さて、カントールの生み出した革新的なアイデアは「可算無限個」なる概念である。読んで字の如く、数えることのできる無限である。もう少し言葉を正確にすると、自然数の集合との間に一対一写像を定義できる(つまり数えることができる)無限集合を「可算無限集合」とよぶ。例を挙げよう。

 まずすべての奇数の集合\( \; O \; \)を考える。この無限集合が可算かどうかを知るには、自然数の集合との間に一対一の対応関係があればよい。ところが写像\( \; D \; \)を、\[ D: \; n \mapsto 2n-1, \; n \in \mathbb{N}^{+} \]で定義すれば、明らかにこの写像は集合\( \; O \; \)と\( \; \mathbb{N}^{+} \; \)との間の一対一対応を成す。というのも、ある未来\( \; D(n) \; \)から、そこに向かう過去を\[ n=(D(n)+1)/2 \]で一意に定められるからである。このことから、奇数という集合は偶数という無限集合を自然数から除いたもの(無限個の元を欠いている)であるにも関わらず、無限としての「濃さ」でいえば、それは自然数の集合と同じだと考えるわけだ。なんとなくイメージは掴めただろうか。

 無限個の元をもつ集合同士があるとき、その包含関係は比べることはできる。しかしそれを元の個数によって比べることはできない。というのも無限というのはひとつの数ではなく概念だからである。しかしカントールは、この無限という「シンボル」を、あたかも「濃度」という性質を備えた数のように扱おうとしたのだ。

 カントールは、自然数全体がもつ濃度を\( \; \aleph_{0} \; \)(アレフゼロ)と名付けた。ある集合にその濃度を対応させる写像を\( \; card \; \)とすれば、元の個数が\( \; m \; \)である有限集合\( \; A \; \)に対しては\[ card(A)=m \]であり、奇数全体の集合であるならばそれは自然数全体の集合の濃度と同じであるので\[ card(O)=\aleph_{0}. \]このように、「個数」という概念を無限の場合に拡張したのがこの濃度という概念である。こう見れば、さきほど「無限というシンボルを数のように扱う」と述べたことの意味が一層明らかになるだろう。

 さて次に有理数全体の集合\( \; Q \; \)というものを考えてみる。これは数えられる程度の無限集合なのだろうか。これについていまから説明しよう。

 有理数とは、既約な分数として表せる数なのだった:\[ q=m/n. \]結論から言うと有理数は一列に並べることができる。つまり可算無限個の集合なのだが、これはちょっと驚きではないだろうか。というのも、任意の自然数のいくらでも近くに、無限個の有理数があるからである。直観的にいえば、有理数自然数のようにスカスカ(離散的)ではなくて、びっしりと数直線を埋め尽くしている印象があるからだ。

 有理数が可算であることを証明するには、ゼロと一の間にある有理数が可算であることを示せば十分である。というのも数直線自体がこの区間を一ずつ左右にシフトしていって足すことで得られるからだ。有理数を次のように並べる:\[ 0, \; 1, \; 1/2, \; 1/3, \; 2/3, \; 1/4, \; 3/4, \; 1/5, \; 2/5, \; 3/5, \; 4/5, \; \ldots \] これによってもれなく一以下の有理数を数え上げることができるのはあきらかだろう。というのも、\[ \dfrac{m}{n}, \; m, \; n \in \mathbb{N}^{+}, \; m<n \]という数は、区間を\( \; n \; \)等分したときの、\( \; m \; \)番目の点にあたるからだ。上のような数え方をすれば、任意の有理数がいつか系列に現れることになる。よって\[ card(Q)=\aleph_{0}. \]この結果から当然次の疑問が浮かぶ:『\( \; \aleph_{0} \; \)より大きな濃度を持つ無限集合は存在するのだろうか』。この問いに答えたのが、時代を先駆けるカントールの天才であった。

連続体濃度と対角線論法

 閉区間\( \; [0, \; 1] \; \)上の実数全体の集合\( \; R \; \)を考える。この集合が可算でないことを示すことが出来る。すなわち実数は数え上げることができない。このことは「数というものの大部分(むしろほぼすべて)は、機械的な操作(等分という操作、あるいは四則演算と言い換えてもいい)によっては得られない」ということを示唆する。まだ発見されていない数が無数にあり、それらは数え上げることができない。順番に並べることができないのだ。人類はすべての数を発見することができない。なんとも興味深い事実である。しかもその証明は意外にもシンプルなのだ。

 まず注意すべきなのは、\( \; R \; \)の任意の元は、有理数で近似できるというこだ。これを有理数稠密性と呼ぶ。選ばれた元が有理数である場合このことは明らかであるから、有理数でない数、無理数有理数でどのように近似できるのかをこれから見ていく。\( \; R \; \)に属するある無理数\( \; s \; \)は、ゼロと一の間にある。これはまず明らかだろう。次にこの区間を十等分し、新しくできた十個のミニ区間の内、何番目の区間にその無理数が入ったかを記録する。今度はその区間をさらに十等分し、何番目のミニ区間に入っているかを記録する。これを繰り返して、次々に得られる数の系列を\[ q_{1}, \; q_{2}, \; q_{3},\ldots \]とおこう。すると無理数\( \; s \; \)は、\[ \begin{eqnarray*} s &=& (q_{1}-1)\times 10^{-1}+(q_{2}-1)\times 10^{-2}+(q_{3}-1)\times 10^{-3}+\ldots \\ &=& 0.(q_{1}-1)(q_{2}-1)(q_{3}-1)\ldots \end{eqnarray*} \]と近似していける。これは\( \; s \; \)の十進数表示にほかならない。そしてこの極限がその無理数に等しくなる。実は「区間縮小法の原理」とも密接な関係がある:Bolzano-Weierstrassの定理 - 着想メトロ

 こうして任意の無理数有理数列によって近似されることがわかった。つまり任意の実数は、有理数列の極限として表せるのである。そして、にも関わらず、有理数は数えられる程度の無限なのだ。

 ここから実数の非可算性を「対角線論法」によって証明する。これはカントールが考えだした方法である。方針としては背理法でいく。すなわち\( \; R \; \)が可算だと仮定して、矛盾を導くのだ。可算ならば、番号を振って並べることができる:\[ R=\{r_{1}, \; r_{2}, \; r_{3}, \ldots\}. \]それぞれの要素を十進数表示してみよう。すなわち有理数列の極限として表示するのである:\[ \begin{eqnarray*} r_{1} &=& 0.q_{11}q_{12}q_{13}\ldots \\ r_{2} &=& 0.q_{21}q_{22}q_{23}\ldots \\ r_{3} &=& 0.q_{31}q_{32}q_{33}\ldots \end{eqnarray*} \] そして\( \; q_{ii}, \; i \in \mathbb{N}^{+} \; \)という形の数だけを取り出して(つまり対角線だけを見て)、実数\[ r=0.q'_{11}q'_{22}q'_{33}\ldots \]を考える。ただし\( \; q'_{ii}=q_{ii}+1 \; \)で、もし\( \; 10 \; \)となったときはこれをゼロとおくと約束する。このように定義すれば、この実数は明らかに既出のどの実数とも異なる新たな実数である。よってすべての実数を並べられていないから矛盾、実数は非可算であることが証明された。

 これによって、ひとくちに無限といってもそこにはクラスがあることになる。より濃い無限といったものが考えられる(実例は上述)。そこで実数がもつ無限の濃度を、自然数のそれと区別するために\( \; \aleph_{1} \; \)とおこう:\[ card(\mathbb{R})=\aleph_{1}. \]以上から順序関係\[ \aleph_{0}<\aleph_{1} \]がわかった。これは言い方を変えれば、自然数と実数の間に一対一写像は存在しないことになる。有理数というのは実数に比べたらはるかに「スカスカ」なのである。

 実際、有理数ルベーグ測度(一般化された「長さ」)はゼロである。すなわち、区間\( \; [0, \; 1] \; \)上のすべての有理数をぎゅっと左に詰めて、その長さを測るとそれはゼロである。逆に、実数(つまり無理数ということになる)の測度は区間の長さそのもの、つまり一となるわけだ。長さという巨視的な量を見たとき、そこに有理数(可算無限個の点)は寄与しない。この点についてもう少し詳しく議論していこう(ルベーグ測度の知識がなくても、核心は掴めるのではないかと思う)。またついでにカントール集合という特異な集合も構成してしまおう。

カントール集合の構成

 既出の集合\( \; R \; \)を考える。いまゼロより大きく一より小さいすべての有理数を一列に並べよう:\[ 1/2, \; 1/3, \; 2/3, \ldots , q_{n},\ldots \]そしてそのそれぞれを、ある開区間\( \; I_{n} \; \)で覆う:\[ q_{n} \in I_{n},\; I_{n}=(q_{n}-2^{-(n+1)}\delta, \; q_{n}+2^{-(n+1)}\delta). \]ここで\( \; \delta \; \)は十分小さな正数である。するとこの開区間の長さは、\[ \mu (I_{n})=2\cdot2^{-(n+1)}\delta=2^{-n}\delta. \]またこの開区間をすべて合わせた和集合の長さは、(互いに重なっている開区間もあるので)それぞれの開区間の長さを個別に測って、そのあと合計した長さよりも小さくなる:\[ \mu \left ( \bigcup_{n}I_{n} \right ) < \sum_{n} \mu (I_{n})=\delta\sum_{n}2^{-n}=\delta. \]いま集合\( \; S \; \)を、\[ S=R-\bigcup_{n}I_{n} \]で定義すると、その長さは\[ \mu(S)=\mu(R)-\mu \left ( \bigcup_{n}I_{n}\right )>1-\delta \]となって、有限の正数となる。\( \; \delta \; \)は任意であったので、これは\( \; S \; \)の長さが実質一であることを意味する。

 実はこの集合\( \; S \; \)がカントール集合の一例となっている。カントール集合とは、閉集合で、かつ集積点のみから成り、さらにその集積点のそれぞれが境界点でもあるような集合である。細かい集合論の用語が出てくるが、焦らずゆっくり見ていこう。

 まず集積点とは、どれだけ小さな領域で囲んでも、その中に別の元が少なくともひとつ入り込んできてしまうような点である。具体的な例をあげよう。集合\( \; J \; \)を、\[ J=\{1/n|n\in \mathbb{N}^{+}\} \]で定義すると、原点\( \; 0 \; \)はこの集合の集積点である。というのも任意の近傍に無数の\( \; J \; \)の元があるからだ。これからわかるように、集積点は\( \; J \; \)に属していなくてもよい。もうひとつの例として、有理数全体\( \; Q \; \)を考えれば、任意の無理数は\( \; Q \; \)の集積点である。これは前述した通り、任意の無理数有理数列で近似できるからに他ならない。

 次に閉集合とは、その集合の集積点をすべて含むような集合である。よって一点からなる集合はすべて閉集合となる。というのも集積点をもたないからだ。

 そして境界点とは、どれほど小さな近傍をとっても、その中に少なくともひとつ、その集合に属さない元が存在することをいう。一点集合は境界点である。また閉区間\( \; [0, \; 1] \; \)もその端点が境界点である。

 それでは集合\( \; S \; \)がカントール集合であることを証明する。まず閉集合であることを示そう。そのために、\( \; S \; \)の集積点で、\( \; S \; \)に属さないものが存在すると仮定し、それを\( \; t \; \)とおこう。するとある\( \; n \; \)が少なくともひとつ存在して、\[ t \in I_{n}. \]ところが\( \; t \; \)は\( \; S \; \)の集積点なのだから、その近傍に無数の\( \; S \; \)の元が存在するので、十分小さな近傍をとればある\( \; S \; \)の元が\( \; I_{n} \; \)に属すことになる。これは明らかに矛盾である。というのも任意の\( \; S \; \)の元\( \; s \; \)は、その構成方法から、\[ s \notin I_{n}, \; n \in \mathbb{N}^{+} \]を満足するからだ。

 次に集積点のみから成ることを証明するため、\( \; s \in S \; \)で、集積点でないものが存在すると仮定すると、ある適当な近傍をとれば、そこにひとつも\( \; S \; \)の元が存在しないようにできることになる。これもまた明らかに矛盾で、その近傍の長さを取ると有限の値が出てきてしまう。これはさきほどの、\( \; I_{n} \; \)の和集合に関する長さの計算と合わない。よって集合\( \; S \; \)は閉集合で、かつ集積点のみから成る。

 最後に各集積点が境界点でもあることを示す。すなわち任意の\( \; s \in S \; \)の任意の近傍に、少なくともひとつ\( \; S \; \)に属さない元が存在することを示すのだが、これは無理数有理数で近似できることを考慮すれば明らかだろう。

 よって集合\( \; S \; \)はカントール集合であって、この場合は正の長さを持つ。なんとも不思議な結果である。集積点のみからなるということはそれだけ密につまっているということなのに、同時に境界点でもあって、至る所に他所の元が侵入してくる。カントール集合はカオスの分野でも頻出で、フラクタルと絡めた話題が豊富である。

連続体仮説――数学は感情を説得し得ない

 これがいよいよ最後のトピックとなる。自然数の濃度\( \; \aleph_{0} \; \)と、実数の濃度\( \; \aleph_{1} \; \)の間に、中間的な濃度は存在するのか。これはカントールが初めて提出した問題で、そのような間をとりもつ濃度は存在しないとする仮説を連続体仮説と呼ぶ。これが、さきほど引用した文章の中で、岡潔が言及していたものである。結論として、それは真でもあり偽でもあることが、ゲーデル、そしてコーエンによって示された。現在の数学では答えることができない(真か偽かの二者択一を迫ることはできない)。以下の引用は、その部分について岡潔が、まったくの門外漢である小林秀雄に説明するシーンである。小林が、数学は感情を納得させることができないという岡の話を聞き、その詳細を求めた。

「言葉の意味はおわかりにならぬでしょうが、一つ一つの意味はおわかりにならなくても、全体としておわかりになると思います。集合論で、無限にいろいろな強さ、メヒティヒカイトというものを考えているのですね。その一番弱いメヒティヒカイトをアレフニュルというのです。その次にじっさい知られているメヒティヒカイトはコンティニュイティ、連続体のアレフといわれているものです。このアレフニュルとアレフとの中間のメヒティヒカイトの集合が存在するかというのが、長い間の問題だったのです。そこでアメリカのマッハボーイ*2は、こういうことをやったのです。一方でアレフニュルとアレフとの中間のメヒティヒカイトは存在しないと仮定したのです。他方でアレフニュルとアレフとの間のメヒティヒカイトは存在すると仮定したのです。この二つの命題を仮定したわけです。どうしたって、これは矛盾するとしか思えません。それは言葉からくる感情です。ところがその二つの仮定が無矛盾であるということを証明したのです。それは数学基礎論といって、非常に専門的技巧を要するのですが、その仮定を少しずつ変えていったのです。そうしたら一方が他方になってしまった。それは知的には矛盾しない。だが、いくら矛盾しないと聞かされても、矛盾するとしか思えない。だから、各数学者の感情の満足ということなしには、数学は存在しえない。知性のなかだけで厳然として存在する数学は、考えることはできるかもしれませんが、やる気になれない。こんな二つの仮定をともに許した数学は、普通人にはやる気がしない。だから感情ぬきでは、学問といえども成立しえない」

小林「あなたのおっしゃる感情という言葉ですが……」

「感情とは何かといったら、わかりにくいですけれども、いまのが感情だといったらおわかりになるでしょう」

小林「そうすると、いまあなたの言っていらっしゃる感情という言葉は、普通いう感情とは違いますね」

「だいぶ広いです。心というようなものです。知でなく意ではない」

小林「ぼくらがもっている心はそれなんですよ。私のもっている心は、あなたのおっしゃる感情なんです。だから、いつでも常識は、感情をもととして働いていくわけです」

小林秀雄全集第十三巻『人間の建設』p156-157.

数学と現実

 ここまで集合論の基本的な概念と、歴史の流れを追ってきた。集合という概念は我々が日常的に利用しているものであるだけに、ここに数学と現実のつながりが如実に現れている。そしてその集合と無限が、深い関わりをもつということも、多くの示唆を与えてくれる。

 数学は、しばしば現実への応用性が低い、またはごく限られた人にしか理解できない分野だと思われがちである。これはある意味で真実だが、岡潔が述べるように、数学というものは本来各人が納得できる形のものでなければならず、感情の叫びを無視してはならないのだ。そういう意味で、数学は直観とか常識とかにその基礎を置かなければならないという意味になろう。そしてぼくはこの意見に賛同する。

 小平邦彦は「数学的実体をみるよう努めなければならない」と言った。そしてこの実体は、表面的には極度に抽象的で、現実から遠ざかったものであっても、そこに至った歴史的経緯、数学的定義の仕方をつぶさに追えばかならず、万人の「感情」が納得するような、血の通う「論理」に貫かれていることがわかるはずだ。

 その上で数学というものを見直すとき、そこには冷たい論理記号と中身のない空疎な概念などはなく、人間の本質へと肉薄する努力が見えてくるはずだ。そしてそれは、我々がこの世界をどのように理解しているかをもっとも純粋な形で、体系的にまとめようとするものなのだ。そしてもちろん、だからこそ数学的美というものがある。この数学的美を垣間見るには、自身の内奥を深く深く掘り下げねばならない。そして「感情」の導きに従わなければならない。こういう意味で、数学とは精神的鍛練に近いものがあるかもしれない。まさに「精神を研ぐ」といった感覚である。

 いずれにしろ、数学は科学を記述する言語という役目以前に、「個人の精神を豊かにする」という大切な顔を持っている。この点を忘れてしまうと、人間を人間たらしめているものを忘れてしまう。人間の本質は数学にはない。だが数学によって、人間の本質に光を照らすことはできるのだ。最後に今回の主役カントールの言葉を、もうひとつ引用しておこう。

「数学の概念には優れた定義づけと矛盾のなさに基づく『内在的な実在』、そして外界の表象に基づく『超主観的な、あるいは超越的な』現実がある」『無限とはなにか?』p45.

無限とはなにか?―カントールの集合論からモスクワ数学派の神秘主義に至る人間ドラマ

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人間の建設 (新潮文庫)

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Logicomix: An Epic Search for Truth

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*1:一灯舎『無限とはなにか?』p41.

*2:コーエンのこと。