着想メトロ

アイデアとは、世界の捉え方を再構成することで新たな価値を獲得し、さらにそれを経験によって持続させる、一連のプロセスのこと。

単語ではなく、伝えたい内容にグローバルな対応をつける

 もうすぐ人生初の通訳としての仕事が控えている。通訳をする上で難しいのは、日本語で述べられた内容をフランス語に変換するプロセスだ。この逆の過程は、よほど聴解力が劣らない限り母語の力で精確さを補うことができるから、それほど苦労はしない。

 僕は話すより書くほうが、また聴くより読むほうが得意であって、この点を考慮して翻訳という作業から入ろうとしたのはごく自然な成り行きだった。通訳は音を、翻訳は文字を入出力するが、両者の間に密接な関係があるのは、中級以上の学習者であればおのずと明らかなことだと思う。また通訳は翻訳に比べ、短時間で正確性を追求しなければならないから、訓練による習熟が不可欠な分野だ。

 一見まったく異なるこの二つの技術にも、ある共通点がある。それは訳出の過程が逐語的ではなく、話者の伝えたい「アイデア」というグローバルな対応のなかにあるということだ。細かい点は別として、アイデアの段階ならばどの言語にもある程度の正確さで訳出できるのは、納得のいくことだろう。

 例として日本語→フランス語の場合を考えてみる。日本語を母語とする話者がある発言をしたとする。これを日本人通訳者は瞬時に理解し、音という定形から、アイデア(話者の伝えたいこと)という不定形のものへと変換する。これは日常でわたしたち日本人が繰り返していることである。そしてここからが通訳者の必要とされる領域だ。つまり理解し獲得したアイデアを、再度フランス語という「形」に出力するのである。この部分で訳者のフランス語の能力が問われる。訳者の語彙が十分豊かであって、また訓練のうちにアイデアを音に変換する作業がほとんど反射的速さに近付いたとき、初めて金をもらえる仕事ができる。イデアという中間項の存在をおろそかにせず、望めるだけの正確さで把握すること、これが訳出の第一歩であり、意外と手を抜いてしまう作業なのである(とくに日本語→フランス語の場合)。

 語彙の豊かさはそのまま網の目の細かさにたとえることができる。アイデアをその網ですくおうとするとき、目が粗ければそれほど正確さの失われる情報が多く、話者の意図していた内容との間に溝ができる。逆に網が十分細やかであれば、それだけ話者の意図を尊重した訳を打ち出すことができる。それでは具体的にどう訓練したらいいのか。この問いに答えてくれるのが、『表現モデル』という概念である。

現代仏作文のテクニック

現代仏作文のテクニック

 

  今回の記事の目的は本書を紹介することにあった。筆者の大賀正喜氏が提案するのが、先に述べた「表現モデル」という武器である。生きたフランス語をたくさん読んでこの武器を充実させ、それを作文に生かすというのが氏のスタイルである。ここに読解という入力と、作文という出力の間の緊密な関係をみることができる。

 50の比較的長い例文(大部分は中学高校の教科書、または『現代用語の基礎知識』から引用されている)を題材とし、訳し筋を細かく丁寧に解説する。フランス語に訳しにくい日本文があるとき、文字という形式にとらわれずいかにうまくその裏に「表現モデル」を見透かすかが、訳出の鍵になると氏は言う。

 日常のフランス語の大部分が、この表現モデルを充填する各単語をある許容範囲内で挿げ替えることによって成り立っている、というのが筆者の慧眼である。たとえば数の増減といった普遍的な内容を表現するのに、核となる部分はこの表現モデルにより統一的に把握できるのである。個々の表現モデルについては本書を覗いてもらうことにして、ここでは筆者が主張する、語学学習において大切な心構えを述べたい。

 1 表現モデルの獲得という問題意識のもと、読書を通して生きたフランス語を吸収し続け、語感を新鮮に保ち、武器庫を充実させることによって初めて作文の力が向上するということ。そして逆に、作文をすることで問題意識が喚起され、読書の仕方もきめ細かになっていくという事実を忘れないこと。この二つの作業を絶えず往復することで、フランス語の能力は飛躍的に高まる。

 2 単語と単語を一対一に結び付けようとしないこと。訳をするときはいつも、アイデアという中間項を通してグローバルな対応をつけること。

 3 単語のみを記憶するのではなく、その単語が表現モデルの中でどのように運用されるのかを知ること。またある表現モデルを知ったとき、そのモデルを充填する各単語がどの単語と交換可能なのか、その許容範囲の目星をつけること。

 筆者は実際に多くの生徒を前に教鞭をとっており、翻訳の経験も豊富である。そのようなキャリアのなか築かれた表現モデルという武器の威力は、次の著作で理解できる:

和文仏訳のサスペンス―翻訳の考え方

和文仏訳のサスペンス―翻訳の考え方

 

  メランベルジェ氏は日本語を巧みに操るフランス語教師である。この方と大賀氏が、共通の例文を訳出しその差異の由来を検討しようというものである。これをみるとわかるように、大賀氏の訳はフランス人のそれとほとんど違わないのである。これは驚くべきことだ。締めくくりに大賀氏の印象的な言葉を引用しておく。

 私はいまだに仏作文に苦しめられていますが、ときどきふっと夏目漱石の「夢十夜」に出ているつぎのような話を思いだします。運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいるというので見に行くと、見物人の評判には委細頓着なくのみと槌を動かして、仁王の顔あたりをしきりに彫り抜いている。無造作にのみをふるっているその下から、小鼻のおっ開いた怒り鼻の側面がたちまち浮き上ってくる。「能くああ無造作にのみを使って思ふ様な眉や鼻が出来るものだ」と感心して独りごとを言うと、そばに居た男が「なにあれは眉や鼻をのみで作るんぢゃない、あの通りの眉や鼻が木の中に埋ってゐるのをのみと槌の力で掘り出す迄だ。丸で土の中から石を掘り出す様なものだから決して間違ふ筈はない」

 仏作文もこれに似たようなものだと思うのです。表現モデルにかんする限り、われわれが発明する余地はまったくないのです。

 

仁王像の写真はこちらからいただきました:

「仁王像~仏像彫刻」 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂 社寺仏教美術 nenbutsushu007 - 写真共有サイト「フォト蔵」