着想メトロ

アイデアとは、世界の捉え方を再構成することで新たな価値を獲得し、さらにそれを経験によって持続させる、一連のプロセスのこと。

Dream

夢は生き抜くことができる

 まずは以下の動画を見ていただきたい。その際この動画を、音として、音のリズムとして味わってほしい。これはある有名な人物のスピーチを動画としてまとめたものである。

 以下に日本語訳を載せておくが、文字に固定されてしまうとその魅力は激減する。ほとんど月並みなことを言っているとさえ感じられてしまうのだ。でもこの人のスピーチを実際に見てぼくは感動したし、心を揺さぶられた。それを与えるのはその人の放つ「肉声」なのだ。だから訳の方は「大体こんなことを言っている」程度におさえておいて欲しい。

Dream - Motivational Video - YouTube

 

あなたがどんな夢を持っているか、私は知らない

その夢の実現に向かって努力することがどんなに絶望的であるかも、私は知らない

ただその夢、あなたが抱えているその夢は 

叶えられる

あなた方のうち何人かはすでに

その辛さを分かっておられる

簡単ではないこと

人生を変えるのは難しいでしょう

夢に向かって努力するその過程で

あなたは多くの絶望、

失敗、

痛みを経験するだろう

自分を疑う瞬間があるかもしれない

「神よ、なぜ私が?」

「子供や母の世話をしようとしているだけなのに」

「盗みをしようなどと考えてはいないのに」

「なぜ私なんだ」

この中にも、耐え難い困難に直面した方がおられるでしょう

夢を諦めないでください

困難のときは必ず来る

ただそれは留まりに来るのではない

過ぎ去りに来るのだ

「グレイトネス(greatness)、そこにはなんの不思議・まやかしも無い」

「神は真に特別なもの」

「それに好んで目をつける」

「そしてそれはわたしたち全員の中に、本当に存在するのだ」

それが自分であると、信じることが大切だ

多くの人は家庭をもち、家族を養い、そして死ぬ

彼らは成長するのを止め、彼ら自身を変える努力を止める。全力を尽くすことを止める

多くの人は不平を言うのが好きだが、彼ら自身のことについては何もしない

ほとんどの人は夢に向かって努力しなくなる

それはなぜか?

第一に失敗を恐れるからだ

「うまくいかなかったらどうなるだろう?」

そして成功への恐怖だ

「一度はうまくいったとして、それが続かなかったら?」

こういう人はリスクを負わないのだ

他人と多くの時間を過ごし過ぎだ

他人に好かれるために時間を使い過ぎだ

他人のほうが自分のことよりもよくわかってる

そいつらを観察し、よく知って

そいつらとつるみたくて、そいつらと同じように生きる

どうなると思う?

多くの時間を他人に割き過ぎて自分が誰なのか分からなくなるんだ

自分のために時間を使え

夢を生き抜きたいのなら、敗者を人生から追い出すことが肝心だ

夢を追い続ける人にとって、人生は特別な意味をもつ

向かうべき正しい方向が分かったら、次は他人と距離を置け

そうすれば自分の中にユニークさが生まれる

他人を追いかけてるうちは、つまり他人のコピーでいつづけるうちは

世界一のコピーにはなりえない

だが君自身の中で最高を尽くすことが大事だ

自分の価値を見定めろ

全員がそれを分かってはくれないし、全員があなたについてくるわけではない

全員にそのヴィジョンが見えているわけではない

自分が非凡な人間だと知ることが大切だ

餓えている人材を自分の夢に巻き込んでビジネスをするのだ

歯止めがきかなくて、合理的に考えない人々

人生を惰性的に生きるのを止め、生き方を再構築している人々

夢を生き勝者を称え、自らもそれに加わろうとしている人々

夢を生き抜く人々とは、それが実際に可能であり、手の届く位置にあることを知っている人々だ

もっと成功したいなら

一度もやったことがないこと、手にしたことがなにものが欲しいなら

自分に投資しろ

他人の批判を現実として受け止める必要はない

犠牲者として人生を生きる必要などない

絶望に直面したときも、自分の中でこう呟いてそれを信じなければならない

「自分ならできる。他の誰一人理解してくれなくても、自分だけはそれを見据え続ける」

これが自分の信じているもので、そのためには命を賭ける

それだけだ

どれほど風向きが悪くても、どれだけ状況が悪化しても

やり遂げてみせる

イデア

可能性を体現したい

君らの中には次のステップへと進みたいものがいるだろう

「城に住みたい、エンジニアになりたい、医者になりたい」聞いて欲しい

そのレベルには到達できない

自分自身に投資しないかぎり、自分が望む経済レベルには到達できない

本は読まない、講演に行け

時間を投資しろ

孤独になれ

自分が誰かを知るために何時間でも割け

本当の自分を生きるとき

自分のあるべき姿で生きるとき

自分という人間が何のために生きているかを知り

自分を変えたとき

個として成ったとき

君は自分を理解し、他人から分離する

君のことが嫌いな人々の中に身を浸せ。なぜって?

そいつらを幸せにしようなんて考えなくなるからだ

ふっきれて次のレベルへと邁進するからだ

自分の精神へ投資するんだ

夢を語り

目標を口にしながら

何も実行していないなら

最初の一歩を踏み出せ

あなたは両親の、学校の誇りになれる

何百万という人々の人生を動かすことができる

そして世界はあなたにこれまで一度もとったことのない姿を見せるだろう

なぜならあなたがそうしたからだ

夢を他人に奪われるな

拒絶されたとき、「NO」と言われたとき、

ミーティングに誰も現れず自分一人だったとき

誰かが「自分を信用しろ」とあなたに言いながら結局応えなかったとき

それは誰もあなたのことを信用していないのだ

あなたは無数の敗北を経験し、光は絶える

それでも夢を見据え続け、毎日それを顧みる

そうして自分自身に言いきかせるのだ

「まだ終わってない」

「勝つまで止まらない」と!

 

夢は生きぬくことができる!!

学問という言葉が纏い始めたこの胡散臭さは一体いつ、どこから来たのか

 この動画の「夢」を「未知のもの、かつ自分が知りたいもの」に置き換えてほしい。それがそのまま学問になる。「最近の大学生は学問をしていない」などという人があるが、とるにたらない偏屈な主張である。いつの時代でも、大学は「学問をする場所」である。それは正しい。ただその仕方が多様になってきているだけなのだ。

 現代に生きる人々の多くは、「学問」という言葉と「専門分野で行われている専門的研究」とを混同している。学問は数学をすることでもなければ物理をすることでもない。「問うことを学ぶ」人はすべて学問をしているのだ。もう少し具体的に言うと「自分が分かっていることではなく、分かっていないことをしっかりと把握し、それをわかるにはどうすればよいかを考え、それを実践すること」だと言える。これをしているすべての人々は確かに学問をしているのだ。

 学問という言葉を「専門」という城壁で覆い、他を威圧する権威として使っている人々は、学問をしていない。そういう人はたくさんいる。大学内外にたくさんいる。そしてそれは学問ではないのだ。

第一段階は自分の現状を知ることから始まる

 自分の現状を知るということは、「何が分かっていないか」を知ることだから簡単ではないし、快くもない。恐怖や恥という感情が、人にそれを実行するのを躊躇わせる。実際に現在の自分を注意深く観察してみれば、至らないことだらけだろう。ぼく自身も、いまの自分をみれば欠点だらけだし、できないこと、わかっていないことが無数にある。

 だがそれはぼくが無能であることを意味しない。それは自明なことなのに、感情の上では何か「羞恥心」を抱いてしまうのは人間の性なのだろうか。

 そしてその性が、分かっていないことを曖昧なままに見過ごさせてしまう。見ないふりをしてしまう。これが実は「分からない」の一番の根っこなのだ。重ねていうが、分からないことは恥ずかしいことでもなんでもない。不理解なしに理解などあり得ないのだ。

 そして不理解を浮き彫りにするには、知りたいことを知ろうとする過程で絶えず自分にこう問わなければならない:「本当に自分は分かっているのか」。そしてそれを確かめるために実践をする。問題を解いたり、同じことを別の表現に言い換えたりしてみる。自分の言葉でまとめてみる。そうすると徐々に不理解の輪郭が見えてきて、その不理解をひとつの「疑問」にまとめられるはずだ。この疑問に曖昧さなどまったくなく、ピンポイントで自分の分かっていないところを突いていなければならない。逆にこういう疑問を見つけるために学習しなければならない。

 これをフローとしてまとめると次のようになる。

  1. 自分がちゃんと理解していないことに気づく。
  2. 何が分かっていないかをはっきりさせる
  3. それを分かるためにはどうすればよいかを考える
  4. それを実行する
  5. もしそれでも理解できなかったら第三(場合によっては第二)のステップへと戻る

たったこれだけのことなのだ。だがこれを実行するのは難しい。なぜかというと、自分の分かっていないことに四六時中向き合うのは疲れるからだ。そんなときに諦めず最後まで(実際には理解に「最後の地点」というものはない。ただ学問の末に振り返ってみたとき、当初設定したレベルへ自分が到達したと知ったなら、これは達成だろう)貫き通せる人には、普通の人にはないある特徴がある。

直近に目標を打ち立てる

 学問は常に現在の自分に対して行わなければならない。そのためには現在の自分の位置を知ると同時に、ごく近い将来の目標、自分が到達すべきレベルを設定するのがいい。こうしないとモチベーションが続かないのだ。

 その際あまりに高いレベルを始めの段階で設定してしまうと、そこまで到達する自分のイメージが掴めなくなる。だから具体的なヴィジョンを抱ける「直近」に、いまの自分のレベルの少し上に目標を据えるのだ。

 そうしてその目標へ到達しようとするプロセス上で出会うあらゆる不理解を見逃さない。ひとつも見逃さない。そうしないと次の段階で目標を立てそれに向かうとき、解決できなかった不理解を抱えたままになる。そしてこの不理解が新たな不理解を呼び、雪だるま式に増加する。もちろん完全には不理解を排除できないので、そうして膨れ上がった不理解の根っこを辿るためにも、第n段階での不理解の根源を第n-1段階目に求めてみることも大事だ。

学習の方法に関しては何も具体的なことは言えない。だが分かっていないことが分かっていれば学習を手助けできる

 理解の仕方には個人差があるから、自分の理解の方法が他人にとって分かりやすいとは限らない。学問の随所で自分の分からないことに出くわすから、ときにはその道で経験のある人に助けを求めるのも大事だ。ただこのとき、分かっていない部分をはっきりさせてから助けを求めよう。

 「ここがわからないのですが」では教える方も困ってしまう。なぜかというと、それでは教える側にとっての「教えるべきこと」が全然伝わらないからだ。

ニールス・ボーアが広めたらしい、今では古典となっている話がある。それは、ディラックが行ったある講演でのことだった。ディラックが話し終わってややあってから、司会者が、質問のある人はいませんかと尋ねた。聴衆の一人が、「黒板の右上の方程式がよくわからないんですが」と言った。ディラックは無言だった。聴衆たちはやきもきして、ざわついたが、それでもディラックは何も喋らず、そんなことは自分には何の関係もないという様子で、講演に与えられた時間を無駄に過ごしているかのようだった。自分が沈黙を破らねばと、司会者が答えを求めると、ディラックは、「今のは質問ではなくて、コメントですよ」と応じた。『量子の海、ディラックの深淵』第13章p209.

量子の海、ディラックの深淵――天才物理学者の華々しき業績と寡黙なる生涯

量子の海、ディラックの深淵――天才物理学者の華々しき業績と寡黙なる生涯

 

 かなり象徴的な話だが、寡黙で実直なディラックらしい対応だ。彼は嫌味を言っているのではなく、どう答えたらいいか分からなかったのだ。なぜかというと質問者の質問が質問ではなくて、感想だったからだ。「ここの方程式の導出には~の定理を用いたのですね」なら質問なのだ。

 このように理想は相手がイエスかノーで答えられる「良い質問」だが、そこまで行かなくても質問の精度を上げることはできるし、そう努力すべきだ。

結局は分からないことに目をつぶらないこと、ただそれだけ

 分からないことはひたすら追求する。不理解を看過せず、真正面から見据える。この勇気が新たな世界地平を拓く鍵になる。不理解を理解へと転換するたびに、わたしたちは世界をより深く理解し、したがって自分自身を深く理解する。そういう意味で学問とは「自分を問うこと」だと言えるかもしれない。

 そしてそれはいつも現在に足をつけていなければならない。この目標に達するには「いま」自分に何が足りず、「いま」自分に何が理解できていないのか。そして「いま」何をしなければならないのか。「よし、実行しよう」。たったこれだけのことだ。

 あまりにも遠くの目標ばかり語っていて何もしない人は、学問をしていない。空想しているだけだ。空想家は思想家にはなれない。思想家は常に現在に世界を見据えているからだ。

 目標に達するための一歩を踏み出すのは一年後でも明日でもない。「いま」だ。

動画中に使われている素材紹介

 まずはLes Brown氏のスピーチから:


It's Not Over Video Of Les Brown - Motivational ...

 彼のスピーチは職人としての技能に溢れているのでとても参考になる。そして感情もこもっている。感動しないはずがない。

 次に天才数学者ジョン・ナッシュの苛酷で美しい人生を描いた『ビューティフル・マインド』を:

ビューティフル・マインド [DVD]

ビューティフル・マインド [DVD]

 

  最後にハンス・ジマーの心揺さぶる楽曲を:


Hans Zimmer - Superman Theme (HQ) - YouTube


映画『マン・オブ・スティール』本予告編映像 - YouTube