着想メトロ

アイデアとは、世界の捉え方を再構成することで新たな価値を獲得し、さらにそれを経験によって持続させる、一連のプロセスのこと。

言葉は思考する(一)――語学は音に始まり、音に極まる

 語学学習にはたくさんの困難がある。日本語が必要とする母音は非常に少ない(五つ)ので、まず最初の壁は母語に無い音をどうやって聞き分けられるようになり、そして確実に発音できるようになるか、ということになる。

 生まれたばかりの赤ん坊は、すべての音を区別する聴力を持っている。これが次第に、母語を理解するのに必要最小限の数にまで減っていく。正確にいえば、近い音同士を区別する境が次第にあやふやになり、ついには消えてしまうわけだ。幼児期に語学学習をすると効率がよいと言われる所以はここにあるのだろう。

 

 また、母語が発達し終わった話者が新たに外語を学ぼうとすると、やはりどうしても母語本来の言語構造、言語特性にひきずられ、それを外語にも投影してしまう。具体的にいえば時制の概念、あるいは単語レベルの意味範囲(その単語がカバーしている対象領域)の違いなどがそれにあたる。

 つまりまったく異なる構造をもった記号体系を脳内に共存させなければならないのだから、難しくて当然なのだ。しかし異なる視点からみれば、語学学習は脳に知的刺激を与える最良の手段だと考えられる。語学が「脳の運動」と呼ばれるのも頷けるだろう。凝り固まった言語野に新たな風を送り込み、その造りを再構成する一連の過程は、人間の精神の根幹をなすであろう言語活動に直接関わってくるだけに、やはり根本的に興味深いし、また現実的にみても利益は計り知れない(活動圏が一気に拡大する)。

 語学をするといっても、人によって求める到達点は様々だ。そこで語学における主要な能力とは何なのかを考えてみる。まず最初に浮かぶのは『聞く』力だろう。他者の言うことを理解することのできる能力である。そして次に自分を表現して他者に理解させる能力、つまり『話す』力と『書く』力が挙げられる。さらに『読む』力、すなわち識字できる能力がある。さらに特殊なものとして『翻訳』があるが、これは相当ややこしいので後回しにする。

 

 上述の能力の内もっとも大事で、できるだけ早期に習得する必要のあるものと考えられるのが、聞く力と話す力である。正確にいうと、冒頭でも触れたように、正しく発音し、正しく聞きわけることである。まずはこれができないと、語学学習の本来の目的である「ネイティヴとの生のコミュニケーション」すらままならないし、「朗読の楽しさ」というものを永遠に味わえないまま終わる。母語を通して考えるとわかるように、わたちたちが日本語を学んだのは音からで、書かれた日本語からではなかったはずである。つまり標語的に言うと、「語学は音から」というわけだ。

 では具体的にどう習得するかというと、ネイティヴに聞いてもらう、そしてネイティヴの音を聞くというのが一番シンプルで確実な方法である。ここでやむを得ずネイティヴという言葉をつかったが、この言葉の意味をこの場だけに限定して定義しておくと、「いま学んでいる(もしくは学ぼうとしている)外語を母語とし、日常的にこの言語を介してあらゆる言語活動を行っている共同体に属する人間」くらいになる。もし発音できない音素があったら、それをネイティヴに発音してもらい、すぐにシャドーイングする。どうやって発音しているのかわからなければ(つまり口内がどうなっているのか、舌の位置、喉の張りの強さなど)、自分で近い音をつくりだすどんな音でも絶対に作り出せる。音はどちらかといえば明るかったか、それとも籠っていたか。唇の動きはどうだったか。咽頭の位置は、喉の奥から出ているのか、浅いところから出ているのか。こういった点をつぶさに観察すれば、間違いなく近い音をみつけることができるはずである。あとは繰り返し繰り返し、できるだけ近い音になるように自分なりの発音方法を体得するだけだ。そしてさらにネイティヴのチェックを受ける。こうして、完璧に発音できるようになったとき、その音を聞きとることも格段に容易になっているはずだ。「発音できない音は聞きとれない」のである。

 しかしここで止まってはならない。単独では発音できる音素も、ある単語の中に置かれると途端に難しくなることがあるのだ(個人的には仏語のdegréがその例)。ここでは音と音のつながりが生じてくるからである。ある音を発音するための口動(発音するとき口全体のとる動きをこう名付けておく)から、また別の音を発音するための口動へと移行するとき、そこに新たな口動が生じるのだ。すると、単独で発音されたときと微妙に、もしくは非常に違う音が生まれる。英語においても単語の尻と単語の頭がくっついて別の音になることはざらにあるだろう。仏語でもリエゾンアンシェヌマンエリズィヨンなどがある。

 音素レベルでの発音を会得したら、次は単語レベルでの発音に挑戦する。ここでもネイティヴのチェックはもちろん欠かさない。発音できる単語が増えてきたら、今度はそれを応用してみる。すなわち読むのである。正しく発音できているという実感があると、読むのがとても楽しいし、ネイティヴに聞いて欲しいと思うものである。それゆえに最初のステップは大事なのだ。一度読むのが好きになれば、あとは名文を適当に選んで、発音を楽しみながら朗読すれば丸暗記してしまうのも難しくはないはずだ。歌を歌うのもよいだろう(異なるテンポで発音される音の違いを実感できる)。

 ここまでくると、外語の音が、生きた音として定着してくる。さらにその外語を話すのに「楽な口の定位置」なるものも見えてくるはずである。当然、日本語を話すときと同じテンションでいるとうまく話せない。他の音に移行しやすい位置というものが自然と見えてくるのだ。こうしてしっかりと音の領域の基盤を固めていく。

 

 次に行うとよいのが文法の学習である。これには適当な本がレベル別にいくつもあるから、自分に合うものを選べばよいだろう。ちなみに「フランス広文典」はいい文法の学習書である。

 なぜ文法を学ばなければいけないのか。それは単純に学習の効率を高めるためである。ネイティヴが話すのを聞いていれば文法を学べないでもない。しかし話者による偏りがありすぎて系統的に学べない。そこで一通りの文法学習をここで済ませてしまう。そしてこの段階で、母語とは異なる様々な特徴、および共通点を発見することができる。また語彙が増えるのもこの時期である。語彙に関しては焦る必要はなく、無理のないペースで少しずつ吸収していけばよい。これについては次に述べる。

 文法を学ぶ上では、発音記号の習得語順時制(過去/現在/未来)・モード(条件法など)の構造語型変化言語レベル(丁寧さのレベル)の区別疑問文・否定文の作り方例文の詳細な解析ぐらいを念頭に置いておけば十分だろう。文法がきちんとなっていないと相手にとって聞き苦しい。自分の話すことを聞いてもらいたい、伝えたいという意志があるのなら、文法は漏れのないようしっかりとおさえておくべきである。ところでこの「相手が理解できるよう正しく、簡潔に」という心構えは外語の場合に限らずコミュニケーションの上で重要である。

 文法をしっかり固めると、言語構造がより明確になる。つまり単語以上のレベルでの文法的構造が可視化され(たとえば節など)、意味をより大きなレベルから掴むことができるようになる。これは文章作成や読解のときにも力を発揮する。

 

 以上が、語学の基盤を固めるまでのステップである。ここからは、より豊富な語彙、豊富な表現を蓄え、会話の中に冗談を交えたり、また対話者との人間関係によって口調を区別したり、はたまた映画・音楽を理解したりと、より高度な力を養成していくことになる。そう、ここからは本格的に、ネイティヴの形成する文化圏へと足を踏み入れることになるのである。

語学学習に際しては常に、対話する相手の存在を意識し、忘れることのないように心掛けるのが大切である。