着想メトロ

アイデアとは、世界の捉え方を再構成することで新たな価値を獲得し、さらにそれを経験によって持続させる、一連のプロセスのこと。

パリの交通事情

 パリまたはパリ郊外の公共交通機関は、何といっても汚い。最近はまだましになったほうで、RER C線なんかの車両は比較的きれいだ。しかしこれがA線やB線になると汚い。汚いのだ。車両のみに限らず、鉄道のホームそのものが汚い。車両の座席に人糞がてんこもり、なんていうのも珍しくない(これは言い過ぎた。自分の運が悪かっただけである)。だから列車に乗るときは、極力車両本体に触れないようにするのがパリジャンの習慣のようだ。もちろん手摺りにもつかまらないようにする。ところが皮肉なことに、パリのメトロの急ブレーキ頻度は半端ではないので、実現するのはかなり難しい(仁王立ちしていればなんとかなる)。

 

 そして落書きが多い。パリと落書きとは、切っても切れない縁なのである。ほとんどそこら中、駅のホームはもちろん、人家の壁、車両本体、とにかく至るところにびっしりと描いてある。ときどきアーティスティックな落書きもあり、さすがパリなどと言っている場合ではない。見ていて悲しくなるほどの量なのだ。なにもパリの歴史ある建物に描かんでもよかろうに…。落書きをしたいのならラクガキ帳を買って頂きたい。

 そして道路整備である。壊滅的といっても言い過ぎではないだろう。パリのならばまだましだ。とはいっても交通ルールを守れていないドライバーが過半数を占めるのは変わらない。優先車線を無視したり、高速道路で車線変更をする際にウィンカーを出さず横断したりと、毎回手に汗握るはめになるのだ。まったくクラクションにここまでお世話になるところもそうないだろう。

 しかしこれが、すなわちパリ市内になると状況はさらに悪化する。鬼は内、福は外である。これ以上どう悪化するのかと訝れるかもしれない。歩行者自転車なのだ。さらに並木のように行く手を遮る無数の駐停車、車線分けのされていないばかでかいロータリー(たとえば凱旋門付近)、そしてきわめつけは青赤の変わり目が噛み合っていない信号である。これらが一挙にドライバーに襲いかかる。両脇を絶えずすり抜けていくバイクに冷や汗必至。横断歩道のない場所でもおかまいなく突っ込んでくる歩行者、ほとんど車道を走っている自転車、信号無視(確信犯)、無茶苦茶な運転はもはや謳い文句のタクシー、幅のない狭い道路でいきなり停車して宅配を始める宅配業者、無数の(人に馴れ過ぎた)、鳩の糞、犬の糞、そして最大の難関、ロータリー。車線分けのないロータリーの周囲には、放射状に道路が枝のように突き出ている(パリに限らずフランスではお馴染み、交通の難所である。仏語ではrond point)ので、各ドライバーは自分の出たい出口に我先と殺到する。まさに地獄。さながらヌーの大群が川でも渡っているようである。

 これでもまだパリで運転したいと思う人がいるなら止めはしない。しかしこれだけは忠告しておく。パリでの駐車料金は二度聞きするくらい高い(二時間で12€)。よって「駐車したから安心」、そうは問屋が卸さない。そこからは時間との勝負。いかに短時間で駐車場に戻って清算を済ませるかが決め手になる。

 なんだか悪口ばかり言ってしまったが、それでもパリは魅力的なのである。これほどの欠点を抱えながら、今日でも世界のモードの最先端をいき、科学が大衆に大きく開けていて、多様な人種、多様な生き方、多様な人の在り方を許す、稀なほど懐の深い都市なのである。知りつくせない複雑さがパリにはある。それは異なるバックグラウンドをもった人々の多様な営みによって生み出される、歴史とともに進化し続けるひとつの生命体のようなものである。パリをパリたらしめているのは、それがフランス文化に支えられているからではない。まったく逆で、文化の多重化多元化が、パリの在り方そのものなのだ。