着想メトロ

アイデアとは、世界の捉え方を再構成することで新たな価値を獲得し、さらにそれを経験によって持続させる、一連のプロセスのこと。

等式での評価と不等式での評価、発火する人類の叡智

 等式とひとくちに言ってもいろいろな意味がある。「定義」そのものを指す場合、また「同値な変形」であったり、「方程式」(未知数に条件を課す式)、集合同士の等式、はたまた極限操作における「収束」の意味での等式であったり。各々の場合に、それがどういう種類の等式なのかを明確に把握しなければならない。

 

 特に収束の意味での等式は、それがどういう条件で成り立つのか、どういう意味での収束なのかをきちんと理解しないといけない。というのも、収束というのは「極限操作によってふたつの要素をどれだけでも近づけられる」ことであるが、この「近さ」の概念はつまりノルムに相当する数学的概念であるから、当然ノルム自体の定義によっていくつもの種類がある。どのようなノルムで測ったときにそれが収束するのか、これをまずしっかりおさえる。

 次に不等式について考えてみる。これは等式よりも制約の弱い主張である。

 大学からの数学は、等式による評価よりもよっぽど不等式による評価のほうが多くなる。だから等式なんかをみるとちょっと身構えてしまうのだ。

 なぜ不等式による評価が多くなってきたのかを考えてみると、やはりそれは数学の一分野の発展が進むにしたがって扱える対象が多くなっていき(むしろそういうふうな方向に理論の発展をもっていくのかもしれない)、そのぶん対象に課せられる制約も軽減されるためだろう。たとえば積分論などはその最たる例である。

 ところで不等式で評価するときにはふたつの要素の近さをある抽象的な形で比べているわけであるから、これはあるノルムで測った数学的量の比較であると考えられる。

 こうしてみてみると、いかにノルムという概念が数学の根底にあるかということがわかるのだ。そしてこのノルムという数学的概念は、日常における近い、遠い、はたまた大きい、小さいなどの耳慣れた表現の数学的結晶なのである。そしてこのノルムを特徴づけるその最たるものが「三角不等式」であることも、日常的な実感から当然ノルムに要求されるべき条件であることを考えると納得できる。

 こうして、数学では数多の具体的な経験から、必要最小限だけの性質を抽象し、あてはめられる対象をできるだけ増やしておいた上で、それらを「要求される条件」として、ある数学的概念を定義するということをやっているのである。これが「公理」であって、理論の大きな枠組みを成すものである。そこから出発して、いろいろな条件をつけ足していったときに成り立つ事実を主張するのが「定理」である。つまり定理を適用できる対象はずっと狭くなるのである。

 まず一番大きな枠組みとして公理系があって、その中に重箱状に定理が格納されている、というのが直観的数学理論なわけで、よく建築物に喩えられるものである。しかしピラミッド状に、下を基礎として上に向かって行くという一方向の捉え方だと、最終的に得られる集大成としてのなにかがあることを予期させてしまうが、発展の方向はひとつではなく多岐にわたるのがふつうだから、階層構造のうえ、さらに横のつながりがネットワーク状に存在していると考えられる。緻密な内部構造を持った神経細胞の集まりのようなものである。

 いままで予想もできなかった二つのネットワーク間に、突如橋が架かることがある。この橋としての仲介役を果たす定理は偉大な発見であり、知ることに大きな喜びを伴う。二つのネットワークに橋が架かり、それぞれがより強固に定着するのである。そして各々のネットワークは、より一般化された新たな自己を獲得する。

 蓄積される人類の叡智は絶えず発火し相互に連絡をとりあっている。それは世界を統一的に捉えようとする人間の根源的欲求を不断の原動力として脈打ち、静かな創造を続けているのだ。