着想メトロ

アイデアとは、世界の捉え方を再構成することで新たな価値を獲得し、さらにそれを経験によって持続させる、一連のプロセスのこと。

木をみて森をみず

 細部にとらわれすぎて全体が見えていないことを言う。言い換えれば、全体を捉える事を怠るなということだ。ただし学習の過程ではどちらも必要だということは確かだろう。つまり

\(1)\) 木を見ずして森を見るなということ

\(2)\) 森を見ずして木を見るなということ

の二つが両立して初めて理解の環がひとつに繋がるのだ。

 学習の到達点としての理想は、学習した内容を自分の言葉で要約できて、しかもその細部を必要とあらば説明できることである。

  また、学習したことをアウトプットしやすい形で(つまり使える状態で)記憶しておくには、まず学んだものを全体として捉えなければいけない。「要するにこういうことだ」ということがわかっていないのでは話にならない。

 しかしこれだけでは「どこか他の場所からそのまま受け売り」で済ませられる。核心は、「要するに」のあとに細部を描写できるか、ということなのだ。必要に応じて引き出しから必要なだけの詳細さで、その「全体」を「細部」に展開できるか。「理解」というものはこれができることなのだ。

 学ぶのは、学んだことを後に生かすことを前提としているから、これを良い形で保存しなければならない。保存する場所は初めはハードウェア(ノートなど外部の保存場所)、後々にはソフトウェア(つまりは頭の中に)、である。

 そのためにはすでに述べた「書き写す」メソッドがいい。時間を置いて(等間隔ではいけない。はじめは短く、少しずつ長くしていくのがいい)自分だけの教科書を繰り返し見直す。するとソフトウェアの中に、整った形で学んだことが修まっていくのがわかるはずだ。それは単に矛盾のない形で理解ができているというだけでなく、細部間のつながりをも捉えられている状態、言い換えれば理解のネットワークができている状態を指すのだ。このネットワークの端は、他の分野と連結するのを待っている。どんなに小さなネットワークでも、それがひとつできてしまうと、次のネットワークを成すのがはるかに容易になるし、ネットワーク同士がつながり、それぞれがより強固に定着する。

 こういう理解のステップを「結晶化」と呼ぶことにする。正確には「学習の結晶化」か。また全体を捉えたり、細部を捉えたりすることを「スケール変換」とよぶことにする。結晶化は、絶えざるスケール変換の繰り返しによってもたらされる。それは全体が細部からなっていて、細部もまた複数の全体からなっている、というふうな、人間の叡智の階層構造に起因するのである。

 「部分」と「全体」とは切って離せぬもの、ひとつの環をなすもの、「」つなのである。