定義とは
「定義」ときいて何を思い浮かべるだろうか。
高校数学ではある定義群から出発して役立つ公式を学んでいって、具体的な問題に対処できるようにするのが一般的。ここでの数学の能力とは問題に適用できる公式を素早く見抜くことであって、ある時間制限のもと評価されるいわば「一過性」を伴うものである。
ところで数学の能力はそれだけで決まらない。より広い意味で数学の能力とは
具体的経験から高位にある抽象的な法則を見出せること
にある。さらに一歩進んで
抽象概念を数式化できること
ともいえる。たとえば表面上は異なる複数の現象の裏に、共通の隠れた法則、パターンなどを見つけ出すちからがそれである。物理をやっている人などは絶えずこういうことをしている。むしろこれができなければ物理はできない。
これに加えて第二の要求、つまり物事の数式化、これができれば真に数学のちからがある。
そこで数学における「定義」を見直してみると、これは抽象概念の数式化であることがわかる。つまりこれらの定義群を「提案」した人びとにとってみれば、これらの定義はある具体的な形をとる抽象概念を、数学的に取り扱えるように、数学の言葉を使って表現したものなのである。これによってどんな利益があるのかといえば、それは端的に
概念の操作
を実行できることにある。たとえば「関数」の概念は集合間の関係を定義していると考えられる。ここから逆写像、合成写像などの操作が数式化されるのだ。
こうしてみると、「定義」とはそこから受ける堅苦しい印象とは逆に、固定された抽象概念を動的にするものだといえる。
言い換えると、数学というものは抽象概念の操作を可能にするから、わざわざ直観的にわかりきっている概念を数式化する、つまりは「定義」するのである。
そこで、この数式化の操作自体は簡単だろうか。そう、これが難しいから、数学の理論を確立するのは難しいのである。
数学の一理論を打ち立てた人々は、無数の具体的な経験からある概念を抽象し、それを数式化することに専心するのである。だから「定義」とは理論の入口ではなくて、これを創った人からすればゴールなのである。
実りある操作を許すようなうまい定義を考えだすことこそ、数学のちからであるとってよい。だから学ぶ側からすれば、定義を理解すること、もう少しいうと
なぜそういう定義にしたのか
を理解することができれば、その理論をおおむね理解したといってよい。理論を構成する多くの定理は、この定義にいろいろな操作を加えたものにほかならない。
よって定義が理解できなくてもそれは当然で、むしろこれを目標にすべきである。ここがわかっていないと、まるで当然のように与えられる定義群に不満を感じその後の学習に支障をきたす。わからなくても問題はなくて、理論を通して徐々に理解していけばいいのだ。
まとめると、数学の理論においては、
定義にそのエッセンスあり
ということになる。