着想メトロ

アイデアとは、世界の捉え方を再構成することで新たな価値を獲得し、さらにそれを経験によって持続させる、一連のプロセスのこと。

習慣について

 ある高校二年生に数学を教えています。わからないことはわからないと素直に言ってくれる子なのですが、ある問題の解答を全体的流れとして理解し、その解答のどこが本質的な着眼点なのかを指摘することができるだけで、もう満足してしまうきらいがあります。

 

 だから同種の問題を解かせても、解答の方針はわかるのに必ず計算ミスをする。解き慣れていないからです。集中力だけが先走りして、注意力・判断力がまったく働いていない。言い換えると、木を見ることはできるが森を見ることができない。

 計算を進めるにあたって、各段階で自分のそれまでの計算が正しいのかを冷静に判断する必要があります。そしてここまでは正しいのに得られる結果がなにかおかしい、というときは、そもそも前提としている部分が誤っている可能性を考慮する必要がでてきます。そして場合によってはゼロから建て直す判断をしなければならないかもしれません。

 

 習慣という言葉がありますが、これは理解するだけで身につくものではありません。それに慣れないことには、理路整然とした、表現力のある解答は作れない。入試でも自分の思考力を解答として示さなければならないのだから、これは実際問題として重要です。

 だから一度解答を作成し終わったら、生徒自身の言葉でその解答を説明させます。そうすると間違いのある部分が自然と浮き彫りになって、生徒自身の自覚とともにミスを修正することができ、次回からより注意力・判断力をもって臨むことができるようになります。

 

                 

『バケモノの子』の話

 僕は細田守監督の『時をかける少女』をみて以来彼の作品のファンなのだけど、昨月に公開された監督最新作『バケモノの子』も公開直後に劇場へと足を運びました。ネタバレが嫌な方は記事を読まないでください。

 

 自分の好きな監督なので他人の評価はもちろん気になる。そこでネットを介していろいろ大衆の意見を聞いたのだけど、どうやら大勢はマイナスのほうに傾いているようです。いわく

  • たくさん詰め込みすぎている
  • ヒロインいらなかった
  • 設定についての説明が足りない
  • 最後どうして九太が勝てたのかわからない

など、なるほどなあと思う見方も多かったが、こういう人もいい点はたくさん知った上でのこの評価なんだろうなと思う。

 僕自身の感想はというと、期待通りの晴れ晴れとした後味が残る映画でした。戦闘シーンの迫力も、描線を辿って行いけば明らかなように、非常に綿密に練られたものでした。また街の細部も非常に丁寧につくりこまれていました。これは前作でもそうでしたね。生物学者の友人が、映画に登場する花の名前がわかると言っていました。そういえば『サマーウォーズ』を観た僕の亡き祖父が、ヒロインの実家を観て『柱が細すぎる、あれじゃ支えられん』と言っていたのを思い出します。観る人が観ればわかるとうことなんですね。

 今回はフランスの友人と観に行ったのですが、その方は「熊徹の笑い方が魅力的だった」とおっしゃっていました。役所さんの声優としての仕事は素晴らしかった。

 それから熊徹が九太に剣の振り方を教えているシーンの話になった。そこで熊徹が「心の刀が大事」だと言っていたことを受けて、その方は日本のサムライを連想したそうです。僕はといえば、心の刀とはぶれない軸のことを言っているのだなあと思いました。一番自分に馴染んだ土俵といってもいい。一時的にはそこを離れたりはするけれど必ずいつかは帰ってくる精神のふるさとのようなものでしょうか。いろいろな含みのあるいい言葉だなあと思いました。

 この映画ではバケモノの世界(渋天街)と人間の世界(渋谷)が対照的に描かれていますが、現実世界においてでも、僕らにとってバケモノのような人間が住んでいる場所なんて身近にいくらでもありますよね。異なる文化をもつ二つの世界を行き来する主人公の生き様は、どの時代・場所でも見られる人間的な営みなのだと思います。

 それはそうとして、監督がインタビューの際に気になる発言をしているのをネットで見つけました。この映画を作るきっかけとして監督は、「子供というのは親だけでなくいろいろな人間に成長させられる」ことに気付いたことを挙げていたのです。でもこれって、子供だけにあてはまるものではないでしょう。実際僕だって、親だとか僕の専門(物理)の先生以外にも、幾人かの友人や、フランス語の先生や、数学の先生に日々いろいろなことを学んでいます。そこで監督の思いをもう少し人生に役立つ形に言い換えて

「人間というのは自分と異なる世界に住んでいる人間との交流によって成長する」

としておきましょう。こういう視点でもう一度映画を観たらもっと面白いのかも。

言葉は思考する(十四)――噴火が地球の温度上昇を緩和か

 今回もHuffpostからの引用:


Réchauffement climatique: de petites éruptions volcaniques pourraient le ralentir, selon une étude

仏作文という観点から読解していく。各パラグラフには内容についての情報を書き記した。重要でない部分は訳を省いた。また本文中の[]は個人的に覚えておきたい表現である。大体の流れは以下の通り:

1) 小規模の噴火でも大気中に十分な量のガスを噴出し地球温度の冷却に貢献している。

2) ところが温度上昇の予測モデルにはこの影響が組み込まれていない。なぜなら噴火そのものが長期予測不可能だから。

3) 結果従来のモデルは不正確だといえる。実際観測結果との食い違いが生じている。

 

(概要)De petites éruptions volcaniques pourraient éjecter davantage de gaz [dans la haute atmosphère terrestre] [qu'estimé jusqu'alors], contribuant ainsi à ralentir [le réchauffement climatique], conclut une étude américaine parue mardi 18 novembre.

1) , contribuant ainsiの繋ぎ方に注意。現在分詞で文と文をつないで主語の繰り返しを避け、表現を簡潔にする(フランス語はconcisであると良い)。またainsiの一語で前の文を受け後に滑らかに接続している。

試訳)11月18日に報告されたアメリカの研究結果によると、小規模の火山噴火が、従来推定されていたよりも多量のガスを上空に放出しており、その結果温暖化の進行を緩和している可能性がある。

 

(地上と衛星からの観測結果)Cette recherche montre que des éruptions comme celles du volcan Sarychev dans l'archipel russe des Kouriles, qui se sont produites entre 2000 et 2013, ont permis de réfléchir presque deux fois plus de [radiations solaires] que ce qui était estimé jusque là.

試訳)この研究は、2000年から2013年までに起きた、千島列島にある芙蓉山に見られるような規模の噴火が、今までの予想量の二倍以上、太陽光線を反射していたことを明らかにした。

 

(温暖化の緩和効果は噴火の規模によらないことが判明)Les scientifiques savent depuis longtemps que des éruptions volcaniques peuvent refroidir l'atmosphère avec les émissions d'anhydride sulfureux. Mais ils pensaient que [seuls de grands volcans] pouvaient en produire des quantités suffisantes pour refroidir la Terre.

試訳)科学者の間では以前から、噴火のもたらす無水亜硫酸が大気を冷却する効果のあることがわかっていた。ところが大規模な噴火に限らず、小規模なものでも地球を冷やすのに十分な量を生み出せることが明らかになった。

(以下に大規模な噴火の例として挙げられている、1991年にフィリピンで起きたピナトゥボ火山の噴火についてのニュース(仏語)を載せておく。これを聞くと、噴火に伴い地震や熱帯性の暴風雨tempête tropicaleが誘発され、現地住民を混乱に陥れていることがわかる:Séisme et éruption du Mont Pinatubo aux Philippines - Vidéo Ina.fr

 

(小規模噴火による温度低下への貢献度の評価)Les chercheurs ont calculé que l'énergie solaire réfléchie dans l'espace avec ces particules d'acide sulfurique provenant des gaz sulfureux émis par les petits volcans pourraient avoir réduit [les températures du globe] de 0,05 à 0,12 degré depuis 2000.

試訳)科学者の計算によると、小火山の排出する硫黄ガスから生じた硫酸分子が、宇宙空間へと反射した太陽エネルギーは、2000年から現在にわたって地球温度を0.05から0.12度減じさせたようだ。

 

(地球温度の上昇が緩やかになったことに対する説明)Les scientifiques avaient avancé plusieurs explications, dont une faiblesse des activités solaires ou l'absorption de la chaleur de l'air par les océans.

2) dontをつかった例示の表現に注目。

試訳)太陽活動の低下や海洋による熱の吸収など、科学者によっていくつかの説明がなされた。

 

(温度上昇の予測モデルには、長期的予測が難しい噴火についての影響は考慮されていない)Le plus souvent, les projections dans les modèles climatiques [ne prennent pas en compte] les effets des éruptions volcaniques car elles sont quasiment impossibles à prédire [sur le long terme], explique Alan Robock, un climatologue à l'Université Rutgers (New Jersey, nord-est), qui n'a pas participé à l'étude.

試訳)たいてい、気象の予測モデルには火山噴火の影響は考慮されていない。というのも噴火の長期予測はほとんど不可能だからだ。(以下訳省略)

祖父

 

 祖父が死んだとき――彼は75歳という若さでその人生を終えたが、僕は実家に帰省中で、その場に居合わせることができた。

 朝、透析に行くというので、祖母の付き添いのもと出掛けた祖父は、小便がしたいといって庭の茂みに入り、突然唸り声をあげて、そのまま祖母に寄り掛かるようにしてずずと崩れた。横で腕を掴んで祖父の躰を支える祖母に対して「背負い投げでもする気か」と言ったのが、最期の言葉だったという。

 僕はといえば、祖父が庭で危篤状態だというのに、自室でぐっすり眠り込んでいた。けたたましい音を立てて部屋に飛び込んできた母の第一声が、「おじいちゃん息してない」だった。

 

 人間というのは忘れる。あれだけ感動したものが日を追うごとに色褪せていく。だからこそ思い出さなくてはならない。それは折りに触れて自ずと姿を現すこともあれば、思い入れのある品に触れて息を吹き返すこともあるだろう。

 

 葬式では、祖父に戒名を授けた地元のお寺さんの住職が、読経の後、祖父との思い出を語った。彼は旅立ってしまったが、みなさんの心の中で生き続ける。彼が歩んだ人生を越えるよう各々が精進すること。命は死して終わるのではない。死の瞬間、その命は伝播する。残された者の糧となる。

 耳の遠い坊さんで、幼少の時分は家に御経をあげにくるたび恐くて部屋に逃げ込んだものだ。その坊さんが、仏となる祖父の前で、生前の祖父との思い出を、一人の坊さんとしてではなく、一人の友人として、僕たちに語りかけている。そのなんでもない事実が僕をひどく動かした。

 

 祖父の死は、家族親類を彼の生家に集結させた。そこには――奇妙なことなのだが――各々が彼との思い出話に花を咲かせ、生き生きしている姿があった。それはまるで祖父の死を分け合っているようだった。そこに生れた一種の一体感とでもいうべきもの、祖父の遺志を引き継ぐ各人が、何か得体の知れぬ、ある目方をもったものを受け取っていく様子を実感するとき、ああ、祖父はこのために死んだのだな、そう思った。

 彼の死が、僕の人生において何が大切なのかを明らかにした。それは故人を偲ぶことであり、また故人に負けないよう人生を生き抜くことだった。故人が守りたかったものを引き継いで守ること。故人が言い遺したことを後世に語り継ぐこと。父はその責任をすでにほぼまっとうしている。いつかその責任が僕に渡される日が来る。覚悟のいることだし、軽いものでもない。だがそれはできるできないの問題ではなく「やるしかない」ものだ。それが尊いから。

 人並外れて丈夫だった祖父も病魔には勝てなかった。その頑健な肉体もいまは骨だけになってしまった。だが、壺におさまった祖父の全重量を支えた感触を、僕の手は生涯忘れないだろう。

 

 なき日々の 影ふみ そばに とどめむと

単語ではなく、伝えたい内容にグローバルな対応をつける

 もうすぐ人生初の通訳としての仕事が控えている。通訳をする上で難しいのは、日本語で述べられた内容をフランス語に変換するプロセスだ。この逆の過程は、よほど聴解力が劣らない限り母語の力で精確さを補うことができるから、それほど苦労はしない。

 僕は話すより書くほうが、また聴くより読むほうが得意であって、この点を考慮して翻訳という作業から入ろうとしたのはごく自然な成り行きだった。通訳は音を、翻訳は文字を入出力するが、両者の間に密接な関係があるのは、中級以上の学習者であればおのずと明らかなことだと思う。また通訳は翻訳に比べ、短時間で正確性を追求しなければならないから、訓練による習熟が不可欠な分野だ。

 一見まったく異なるこの二つの技術にも、ある共通点がある。それは訳出の過程が逐語的ではなく、話者の伝えたい「アイデア」というグローバルな対応のなかにあるということだ。細かい点は別として、アイデアの段階ならばどの言語にもある程度の正確さで訳出できるのは、納得のいくことだろう。

 例として日本語→フランス語の場合を考えてみる。日本語を母語とする話者がある発言をしたとする。これを日本人通訳者は瞬時に理解し、音という定形から、アイデア(話者の伝えたいこと)という不定形のものへと変換する。これは日常でわたしたち日本人が繰り返していることである。そしてここからが通訳者の必要とされる領域だ。つまり理解し獲得したアイデアを、再度フランス語という「形」に出力するのである。この部分で訳者のフランス語の能力が問われる。訳者の語彙が十分豊かであって、また訓練のうちにアイデアを音に変換する作業がほとんど反射的速さに近付いたとき、初めて金をもらえる仕事ができる。イデアという中間項の存在をおろそかにせず、望めるだけの正確さで把握すること、これが訳出の第一歩であり、意外と手を抜いてしまう作業なのである(とくに日本語→フランス語の場合)。

 語彙の豊かさはそのまま網の目の細かさにたとえることができる。アイデアをその網ですくおうとするとき、目が粗ければそれほど正確さの失われる情報が多く、話者の意図していた内容との間に溝ができる。逆に網が十分細やかであれば、それだけ話者の意図を尊重した訳を打ち出すことができる。それでは具体的にどう訓練したらいいのか。この問いに答えてくれるのが、『表現モデル』という概念である。

現代仏作文のテクニック

現代仏作文のテクニック

 

  今回の記事の目的は本書を紹介することにあった。筆者の大賀正喜氏が提案するのが、先に述べた「表現モデル」という武器である。生きたフランス語をたくさん読んでこの武器を充実させ、それを作文に生かすというのが氏のスタイルである。ここに読解という入力と、作文という出力の間の緊密な関係をみることができる。

 50の比較的長い例文(大部分は中学高校の教科書、または『現代用語の基礎知識』から引用されている)を題材とし、訳し筋を細かく丁寧に解説する。フランス語に訳しにくい日本文があるとき、文字という形式にとらわれずいかにうまくその裏に「表現モデル」を見透かすかが、訳出の鍵になると氏は言う。

 日常のフランス語の大部分が、この表現モデルを充填する各単語をある許容範囲内で挿げ替えることによって成り立っている、というのが筆者の慧眼である。たとえば数の増減といった普遍的な内容を表現するのに、核となる部分はこの表現モデルにより統一的に把握できるのである。個々の表現モデルについては本書を覗いてもらうことにして、ここでは筆者が主張する、語学学習において大切な心構えを述べたい。

 1 表現モデルの獲得という問題意識のもと、読書を通して生きたフランス語を吸収し続け、語感を新鮮に保ち、武器庫を充実させることによって初めて作文の力が向上するということ。そして逆に、作文をすることで問題意識が喚起され、読書の仕方もきめ細かになっていくという事実を忘れないこと。この二つの作業を絶えず往復することで、フランス語の能力は飛躍的に高まる。

 2 単語と単語を一対一に結び付けようとしないこと。訳をするときはいつも、アイデアという中間項を通してグローバルな対応をつけること。

 3 単語のみを記憶するのではなく、その単語が表現モデルの中でどのように運用されるのかを知ること。またある表現モデルを知ったとき、そのモデルを充填する各単語がどの単語と交換可能なのか、その許容範囲の目星をつけること。

 筆者は実際に多くの生徒を前に教鞭をとっており、翻訳の経験も豊富である。そのようなキャリアのなか築かれた表現モデルという武器の威力は、次の著作で理解できる:

和文仏訳のサスペンス―翻訳の考え方

和文仏訳のサスペンス―翻訳の考え方

 

  メランベルジェ氏は日本語を巧みに操るフランス語教師である。この方と大賀氏が、共通の例文を訳出しその差異の由来を検討しようというものである。これをみるとわかるように、大賀氏の訳はフランス人のそれとほとんど違わないのである。これは驚くべきことだ。締めくくりに大賀氏の印象的な言葉を引用しておく。

 私はいまだに仏作文に苦しめられていますが、ときどきふっと夏目漱石の「夢十夜」に出ているつぎのような話を思いだします。運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいるというので見に行くと、見物人の評判には委細頓着なくのみと槌を動かして、仁王の顔あたりをしきりに彫り抜いている。無造作にのみをふるっているその下から、小鼻のおっ開いた怒り鼻の側面がたちまち浮き上ってくる。「能くああ無造作にのみを使って思ふ様な眉や鼻が出来るものだ」と感心して独りごとを言うと、そばに居た男が「なにあれは眉や鼻をのみで作るんぢゃない、あの通りの眉や鼻が木の中に埋ってゐるのをのみと槌の力で掘り出す迄だ。丸で土の中から石を掘り出す様なものだから決して間違ふ筈はない」

 仏作文もこれに似たようなものだと思うのです。表現モデルにかんする限り、われわれが発明する余地はまったくないのです。

 

仁王像の写真はこちらからいただきました:

「仁王像~仏像彫刻」 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂 社寺仏教美術 nenbutsushu007 - 写真共有サイト「フォト蔵」